小川洋子 薬指の標本 目 次  薬指の標本  六角形の小部屋  薬指の標本    1  わたしがこの標本室に勤めるようになってから、もうすぐ一年になる。前にやっていた仕事とはずいぶん趣が違うので、初めの頃《ころ》は戸惑ったが、今ではすっかり慣れてしまった。重要書類の保管場所は完璧《かんぺき》に把握《はあく》しているし、和文タイプはマスターしたし、電話の問い合わせに対しては、優しく丁寧に標本室の役割を説明することができる。実際、電話を掛けてきた人のほとんどがわたしの説明に満足し、また安堵《あんど》して、次の日にはそれぞれの品物を胸に標本室の扉《とびら》をノックするのだ。  ここの仕事はさほど込み入ったものではない。ある程度の慎重さと几帳面《きちようめん》さがあれば、問題なくこなせる種類の仕事だ。むしろ単純すぎるくらいだ。  だが退屈はしない。持ち込まれる品物の種類は数限りないので、飽きるということがないし、そのうえ来訪者たちは、たいていの場合、必要な手続きが終わってもすぐには帰ろうとしない。その品物がどうしてここへたどり着くことになったのかといういきさつを、わたしに話したがるからだ。  彼らの話を聞いてあげることも、大切な仕事の一つに含まれている。この一年間でわたしは、相手を安らかにする耳の傾け方や、微笑《ほほえ》み方や、あいづちの打ち方がうまくなったと思う。  ここで働いているのは、わたしと、経営者であり標本技術士でもある弟子丸《でしまる》氏の、二人だけだ。建物の広さからすると、少なすぎるかもしれない。ここには数え切れないほどの小部屋があり、その他に、中庭と屋上と地下室があり、機能していないとはいえ大きな浴場までついているのだ。  しかし仕事の量は場所の広大さとは無関係なので、わたしたちは二人だけでも、余裕を持って標本室を切り盛りすることができる。残業やノルマはないし、休日もきちんととれる。  わたしと弟子丸氏の役割は明確に分れている。彼は技術士として標本の作製全般を受け持ち、わたしは来訪者の応対と記録簿の整理、その他|諸々《もろもろ》の雑用を任されている。  仕事の仕組みを教えてくれたのは弟子丸氏だった。予約表の作り方、品物を受け取る時の注意点、タイプの使い方、記録簿の記入方法、ゴミの収集日、掃除道具やお茶のセットや文房具の保管場所……。彼はこまごまとしたルールを、根気強く説明してくれた。ミスをしても怒ったりせず、冷静にそれをカバーし、言葉だけでは分りにくい問題は実際に彼がやってみせた。  そうしてわたしは、標本室に関するあらゆる事柄《ことがら》を理解していった。段々に一人で何でもできるようになってくると、彼はもう口をはさまなくなった。 「あとは、あなたのお好きなやり方でやって下さって結構です」  と言って、自分の持ち場に専念するようになった。おかげでわたしは、自分のペースに合わせて仕事の順序を入れ替えたり、書類の様式をアレンジしたりすることができた。  ここには、命令も強制も規則もスローガンも当番も朝礼もない。わたしは自由に標本を取り扱い、保管することができる。わたしは標本室をとても気に入っている。できることならいつまでも、ここにいたいと思っている。弟子丸氏はたぶん、それを許してくれるだろう。  標本室に来る前、わたしは海に近い田舎の村で、清涼飲料水を作る工場に勤めていた。それは浜辺に続くなだらかな丘の頂上にあり、周りは果樹園に囲まれていた。そこで採れるみかんやライムやぶどうを原料にして、ジュースを作っていたのだ。  最初、瓶《びん》の洗浄のセクションに半年いたあと、サイダーの製造係に回され、ずっとサイダー専門でやっていた。ベルトコンベヤーの具合を調節したり、不良品を取り除いたり、透明度をチェックしたりする仕事だった。  特別やりがいがあったわけではないが、仲間の女子工員たちとボーイフレンドについておしゃべりするのは楽しかったし、工場の窓から見える波のない海は、いつもわたしを平和な気持にしてくれた。毎日が、サイダーの甘い香りに包まれていた。  ある夏の、一年中で一番出荷量の多い大忙しのある日、わたしはサイダーを溜《た》めたタンクとベルトコンベヤーの接続部分に、指を挟《はさ》まれてしまった。  それはあまりにも一瞬の出来事だったので、時間が止まってしまったと錯覚したくらいだった。ガチャンと安全装置が作動し、機械が静止し、コンベヤーの上に並んだ瓶からは水滴がしたたり落ち、天井の非常ランプがくるくる回っていた。すべてがしんと息をのんでいた。わたしは不思議なほどに穏やかな気持で、その静けさに耳を傾けていた。少しも痛くなかった。  ふと気がつくと、吹き出した血がタンクの中に流れ込み、サイダーを桃色に染めていた。その澄んだ色が、泡《あわ》と一緒にぷつぷつと弾《はじ》けていた。  幸運なことにけがは大したことはなかった。左手の薬指の先の肉片が、ほんのわずか欠けただけだった。  もしかしたらそのことは、わたしが考える以上に重大なことだったかもしれない。何といっても身体《からだ》の一部を失ったのだから。でもわたしは周りが心配するほど傷ついてはいなかった。確かに初めて包帯を取った時には、微妙にバランスの崩れてしまった左手が頼りなげに思えたが、日常生活には何の不便もなかったし、三日もするとすぐに見慣れてしまったからだ。  ただ一つわたしを悩ませたのは、薬指の先の肉片はどこへ消えてしまったのだろうという疑問だった。わたしの残像の中でその肉片は、桜貝に似た形をしていて、よく熟した果肉のように柔らかい。そして冷たいサイダーの中をスローモーションで落ちてゆき、泡と一緒にいつまでも底で揺らめいている。  実際にはわたしの肉片は、機械のすきまで押しつぶされ、消毒液と一緒に洗い流されてしまったのだが。  サイダーを一口でも口にしようとすると、薬指の柔らかい肉片が舌を転がってゆくような気がして、どうしても飲み込むことができなくなった。あの事故のために、わたしはサイダーが飲めなくなり、工場もやめてしまったのだった。  欠けた薬指と一緒にわたしは街へ出た。海辺の村からこれほど遠出するのは初めてだったし、親類や友だちもいなかったので、最初はただ無闇《むやみ》に歩き回ることしかできなかった。いくつかの横断歩道を渡り、工事現場を迂回《うかい》し、公園を一周し、地下街を通り抜けている間に、標本室と出会った。  初めてそれを見た時は、取り壊しを待っているアパートだと思った。それくらい古くてひっそりとしていた。  周りは比較的高級な住宅地で、どの家にも出窓と犬小屋と芝生の庭があった。道は清潔で静かで、時々外車が通り過ぎていった。そんな中で標本室は、確かに特別な雰囲気《ふんいき》をたたえていた。  コンクリートの四階建てでどっしりはしているが、外壁も窓枠《まどわく》もアプローチのタイルもアンテナも、すべてがくすんでいた。どんなに目を凝らしても、真新しい部分を見つけることはできなかった。  人が一人やっと立てるくらいの小さなベランダが、横に十個、縦に四個、規則正しく並んでいた。手すりはすっかり錆付《さびつ》いていたが、洗濯《せんたく》ばさみや植木鉢《うえきばち》や段ボールや、そういう生活の匂《にお》いのするものが何もなく、すっきりとしていたので、うらぶれた感じはしなかった。  その他に、ダストシュートの筒が九本、物干し用の鉤《かぎ》フックが八十個、換気扇のプロペラが四十個、一つの狂いも破損もなく、平等に連なっていた。  窓は分厚く頑丈《がんじよう》そうで、どれも磨《みが》き込まれていた。ひさしは角が面取りしてあり、角度によっては一続きの波模様のように見えた。所々に、そういう丁寧さを隠し持った建物だった。  煉瓦《れんが》の門柱に貼《は》り紙がしてあった。 『事務員を求む  標本作製のお手伝いをしていただける方  経験、年令不問  この呼び鈴をどうぞ』  黒いフェルトペンの、癖のない字だった。四隅《よすみ》を止めたセロテープが乾燥し、今にも剥《はが》れそうだった。わたしは呼び鈴の白いボタンを押した。  遠くでベルの音がした。建物の奥に潜んでいる、深い森から響いてくるような音だった。たっぷりと時間をおいてから、扉が開いた。そこに立っていたのが、弟子丸氏だった。 「あの、貼り紙を見たんです」  わたしは門柱を指差して言った。 「まだ、間に合いますか?」 「ええ。大丈夫です。どうぞ、中へ」  彼は大きく手を広げ、わたしを奥へ招き入れた。  外観から受ける印象よりも、中はいくらか温かみがあった。床に張られた木材はコンクリートほどくすんでいなかったし、中庭から夏の終わりの陽射《ひざ》しが差し込んでいたからだ。案内されて廊下を進むうち、建物はロの字形になっていて、真ん中が緑にあふれた広い中庭になっていること、そしてその中庭に面して、同じ大きさの部屋がいくつもいくつも並んでいることが分った。そのうちの一部屋に、わたしは通された。  ソファーと、コーヒーテーブルと、五段チェストと、電気スタンドと、掛時計があり、それだけで一杯になるくらいのスペースだった。窓の両|脇《わき》には水色のカーテンが束ねられていた。天井が高く、下がっているペンダントのシェードは、チューリップ型のすりガラスだった。  標本に関《かか》わるようなものは何も見当らなかった。そこで、面接が行なわれた。わたしたちは向き合って坐《すわ》った。 「はっきり言って、僕の方から聞かなきゃならない質問事項というのは、あまりないんです。もちろん、名前や住所くらいは知っておきたいですけれど、そういう形式的なことは、この標本室ではほとんど意味を持っていないんです」  弟子丸氏はお医者さんのような白衣を着て、ソファーの背にもたれかかり、腕を組んでいた。くたびれてはいないが、よく使い込まれた白衣のようだった。右のポケットと袖口《そでぐち》と胸元に、涙がにじんだような薄い染みがあった。 「むしろあなたの方に、いろいろとお聞きになりたいことがおありでしょう。あの貼り紙には、大切なことは何一つ書かれていませんでしたから」  彼はまっすぐにわたしを見た。濁りのない目だった。中庭からの光が目元を影にしていたが、それでも瞳《ひとみ》の形がくっきりと浮き出ていた。 「ええ、確かに」  わたしはその印象的な視線から目をそらすことができないまま、つぶやいた。そして一度深く息を吸い込み、言葉を選びながら続けた。 「つまりここは、何かの研究室、あるいは、博物館のようなものなのでしょうか」 「いいえ。全く異なります」  あらかじめわたしの質問を予測していたかのように微笑《ほほえ》みながら、彼は首を横に振った。 「ここでは、研究も展示も行なわれていません。役割は、標本を作り、保存すること、ただそれだけです」 「では、何のための標本なのでしょうか」 「共通の目的を見つけるのは難しいですね。なぜなら、ここでの標本を希望する人たちの事情は、おのおの全部違っているからです。すべてが、全く個人的な問題なのです。政治や科学や経済や芸術とは無関係です。僕たちは標本を作ることで、その個人的な問題と対面することになります。分っていただけますか?」  しばらく考えてからわたしは、いいえ、と答えた。 「ごめんなさい。思っていたよりも、ややこしいお仕事みたいで……」 「いや。あなたが戸惑うのも無理はありません。こういった種類の標本室は、どこにでもあるというものではありませんから、理解するには多少時間が必要でしょう。この標本室だって、看板を出しているわけでもなければ、電話帳に広告を載せているわけでもありません。本当に標本を必要としている人たちは、目をつぶっていてもここへたどり着けるのです。標本室の存在とは、そういうしのびやかなものでなければならないんです。  しかし、僕の説明の仕方もまずかったようです。原理を説明しようとして手間取ったんです。でも形式は、シンプルなんですよ。まず、標本にしてもらいたい品物を持って、来訪者が現われます。あなたは必要な手続きをしたうえでそれを受け取り、僕は標本を作製します。そして、それぞれの標本に見合ったお金を受け取ります。つまり、それだけのことです」 「わたしにも、できるでしょうか」 「もちろん。特別な技術なんていりません。一番大切なのは誠意なんです。どんなにちっぽけでささやかな標本でも、粗末にしないことです。慈《いつく》しむことが必要なんです」  彼は、いつくしむ、という言葉を、大事にゆっくり発音した。  中庭の緑の間を小鳥が通り抜けていった。空を斜めに飛行機雲が横切っていた。陽射しには夏の明るさがまだ十分に残っていた。風景も建物も、みんなまどろんでいるように静かだった。  二人の間にはコーヒーカップも灰皿もライターも筆記用具も何もなかったので、わたしは膝《ひざ》の上で掌《てのひら》を重ねたまま、ただじっとしているしかなかった。  改めて弟子丸氏を見ると、顔や身体つき全体の雰囲気は、彼の視線ほどには印象的でなかった。すべてがすっきりと整っていて、すきがなかった。肌《はだ》の色、髪の毛、耳の形、手足の長さ、肩のライン、声、どこを取ってもバランスが取れていた。なのになぜか、わたしを油断させない、危うい感じが漂っているのだった。  それはたぶん、彼が自分にまつわるあらゆるものを、見事なまでに排除しているからだろうと、わたしは思った。彼は腕時計をしていなかった。胸ポケットにペンもさしていなかった。あざやほくろや傷跡も、一つもなかった。 「いつも、こんなに静かなんですか?」  わたしは彼の胸元の染みに視線を落として言った。 「はい。標本を作るのは、静かな作業ですからね。それに、ここには僕の他に、老婦人が二人いるだけなんです」 「老婦人?」 「ここは昔、女子専用アパートだったんです。もう何十年も前の話ですけど。ところが段々に入居者が減り、みんな歳《とし》をとってきて、さびれてしまったんですね。それで最後まで残った二人のご老人はそのままで、わたしが標本室として買い取ったのです。標本とは無関係に、二人の老婦人がここで生活なさっているというわけです」 「標本を作るのは、あなたお一人なんですか?」 「ええ、一人で十分です。ただ、事務的なことをしてくれる人が必要です。僕はできるだけ作製に集中したいんです。前の事務員がいなくなってからもう一か月にもなるので、困っているんです」  そう言って彼は、しばらくチューリップ型のシェードのあたりを見やってから、すっと立ち上がり、中庭に通じる窓を開けた。ガラスが震え、乾いた風が流れ込んできた。 「以前はどんなお仕事をしていらしたのですか」  彼が言った。 「清涼飲料水の工場に勤めていました」 「そうですか。お給料は、その工場の二割増しでどうでしょう。ボーナスは夏と冬合わせ四か月分。勤務時間は八時半から五時まで。お昼一時間、午後三十分、休憩が取れます。もっとも、来訪者の数によって忙しさは違います。一日中、一人も現われない日だってあるんですから。休日は土曜日と日曜日と祝日。長期休暇も取れます。悪くない条件でしょ?」  わたしはうなずいた。彼は窓を背に立っていたので、陽射しが白衣を包み込み、輪郭をにじませていた。 「それでは決まりです。あなたにお願いします」  彼はそのにじんだ腕を前に伸ばした。わたしは彼に近づき握手した。指を全部自分の掌の奥へ閉じ込めてしまおうとするかのようにきつく、彼はわたしを握り締めた。  そのあとわたしは、何でもいいから一つ標本を見せてもらえないだろうかと、弟子丸氏に頼んだ。考えてみればわたしは、標本というものをじっくりと眺《なが》めたことがなく、具体的なイメージも何一つ持ち合わせていなかった。昔、理科の実験室かどこかで、蝶《ちよう》やカブトガニの標本を見たことはあったかもしれないが、弟子丸氏が言うようにここが一種の特別な標本室であるのなら、ここにふさわしい標本の実物を、見ておきたいと思ったのだった。  地下室にあるという標本技術室から、彼が持ってきたのは、きのこの標本だった。しかし、すぐにそれがきのこだと分ったわけではない。最初は何か、原始的な海の生物のように見えた。それが試験管に満たされた液体の中を、ゆらゆらと泳いでいたからだ。 「もっと近くで見てもいいですか?」  わたしは言った。 「どうぞ」  彼は試験管をわたしに手渡した。  試験管は細身で、掌におさまるくらい小さく、口にはコルク栓《せん》がしてあった。そのコルクのところに、たぶん標本を依頼した人のものであろう名前と、他に数字やアルファベットをタイプしたシールが貼ってあった。  きのこは全部で三つだった。軸の先まで入れても数ミリくらいの大きさしかなく、かさは楕円形《だえんけい》で、真ん中が赤血球のようにくぼんでいた。少しでも試験管を動かすと、それらはぶつかり合いながら、気ままに上下した。  液体は無色透明で、水よりは微《かす》かに濃度が高いようだった。きのこを包み込むようにしながら、その光沢のある黄土色を映し出していた。 「これが、標本ですか」  わたしはつぶやいた。 「そうです。このきのこを持ってきたのは、十六歳くらいの女の子でした。彼女は石けんの空箱に脱脂綿を敷いて、その中にきのこを三つ並べていました。一目見て、標本にするのなら急がなければ、と思いました。既に乾燥と腐食が始まっていたからです」  弟子丸氏もわたしも、試験管を見つめていた。 「『わたしの家の焼け跡に、生えていたきのこです』と、彼女は言いました。膝に置いた学生|鞄《かばん》の把手《とつて》をきつく握り、うつむき加減で、緊張している様子でしたが、言葉遣いや態度はきちんとしていました。  彼女の左の頬《ほお》には火傷《やけど》の跡がありました。夕暮れの光の中では見落としてしまうくらいの、淡い傷跡でしたが、家が焼けたことと関わりのある傷だろうということは、すぐに察しがつきました。 『家が火事になり、父と母と弟が焼け死んで、わたしだけ助かりました。次の日、焼けただれた地面に、このきのこを見つけたんです。三つ寄り添って生えていたので、思わず摘み取ってしまいました。いろいろ考えて、ここで標本にしてもらうのが一番いいだろうと思いました。燃えてなくなってしまったものを全部、きのこと一緒に封じ込めてもらいたいんです。お願いできるでしょうか』と、彼女は手短かに事情を述べ、そのほか余計なお喋《しやべ》りは一切しませんでした。もちろん、僕はOKしました。彼女は標本室の意味を非常によく理解していました。彼女が、封じ込める、という言葉を使ったことで、それは分ります」  弟子丸氏は一つ、長い息を吐いた。  わたしはもう少し試験管を近づけた。かさの裏のひだまでが、ガラスに映って見えた。それは根気よく折り畳んで作られた、紙細工のようだった。ひだの透き間の所々には、胞子の粒がついていた。 「きのこはいつ、彼女に返されるんですか」 「返しません。標本は全部、僕たちで管理、保存するんです。そういう決まりになっています。もちろん依頼者たちは、好きな時に自分の標本と対面することができます。でも、ほとんどの人がもう二度とここへは現われません。きのこの彼女もそうです。封じ込めること、分離すること、完結させることが、ここの標本の意義だからです。繰り返し思い出し、懐《なつか》しむための品物を持ってくる人はいないんです」  試験管のガラスの向こうに、弟子丸氏が透けて見えた。彼の目はじっと動かなかった。いつの間にか翳《かげ》りはじめた光が、テーブルに影を作っていた。飛行機雲が夕焼けの中で消えようとしていた。  わたしはふと、彼の視線の先にあるのはきのこではなく、左手の薬指かもしれないと思った。普通にしていれば目立たない傷だが、その時薬指はコルク栓とガラスの縁の境に添えられ、彼の息が吹きかかるくらいのところにあった。彼は欠けてしまった肉片の輪郭をなぞろうとするかのように、目を凝らしていた。  わたしたちはしばらく黙っていた。さり気なく指の位置を変えてみようと思ったが、意識すればするほど指先が硬くなってしまった。弟子丸氏の瞳は、なかなか薬指を放してくれなかった。二人の間で、いつまでもきのこが揺らめいていた。    2  今日は朝からひどい暑さで、受付室にある旧式のクーラー一つでは、いくらつまみを最強にしても効きめがないほどだった。昼休みに買ってきたアイスクリームは、半分も食べないうちにぽたぽたと溶けはじめ、記録簿に記入するブルーのインクは、汗でにじみがちだった。そのうえこの部屋は日当たりがよすぎるので、一時間おきに陰を求めて机と椅子《いす》を移動させなければいけなかった。  この部屋は、女子専用アパートだった頃《ころ》は管理人室として使われていたもので、鍵《かぎ》を保管する金庫や、非常ベルのランプ板や、館内放送用のマイクがまだ残っていた。どれも骨董品《こつとうひん》店に並んでいるような、旧式のものばかりだった。  あまりの暑さのせいで来訪者は一人しかなく、あとは電話が二本あっただけだった。しかも大して重要でない電話ばかりで、「先日、尿路結石の標本をお願いした者ですが、今度一緒にお食事でもいかがですか」という中年男性からと、「おたくの玄関のガラス戸には悪い霊がついています。わたしにお祓《はら》いさせて下さい」というお婆《ばあ》さんからだった。もちろん二件とも、失礼にならないようにお断わりした。  たった一人の来訪者は、三十歳くらいの美しい女性だった。彼女が持ち込んだ品物は、楽譜だった。  わたしが椅子を勧めると、彼女は足を組んで坐《すわ》り、書類かばんから数枚の紙を取り出した。 「こんなものでも、標本にしていただけるでしょうか」  彼女は落ち着いた声で言った。わたしはそれを手前に引き寄せた。アイボリーがかった、しっかりした紙質の楽譜だった。 「もちろん大丈夫です。何の問題もありません」  と、わたしは答えた。  最初の頃は、こういう無機物を標本にするということに戸惑った。ここでは昆虫《こんちゆう》や植物というありふれた標本は少なく、標本処理を施さなくても十分保存できるようなもの、例えば髪飾りや、カスタネットや、毛糸の玉や、カフスボタンや、化粧ケープや、オペラグラスや、その他数えきれない種類の無機物を持ち込む人の方が多いのだった。  しかし段々、外の世界とは違う、ここの標本の意味合いに慣れてくると、もう滅多なことでは驚かなくなった。ビーカーに入った精液を突き付けられた時でさえ、今日と同じように微笑みながら、「もちろん大丈夫です。何の問題もありません」と答えることができた。 「以前ここを利用したことのある、わたしの遠い親戚《しんせき》から、話を聞いてやってきました。標本にしてもらうと、とっても楽になれるって……」 「ええ。確かにその通りです。ここは標本的救済の場所ですから」 「でもこれは、材料としては特殊すぎるんじゃないかと、心配なんです」  彼女は楽譜を指差して言った。マニキュアが光っていた。  ファンデーションのせいかもしれないが、彼女の頬は外の暑さを忘れさせるくらい、白くひんやりとして見えた。ブラウスの袖《そで》からのぞく腕も、さらさらとして汗ばんでいなかった。 「特殊すぎるなんてことはありません。安心して下さい。これなら、二日くらいで完成しますよ」 「でも、わたしがお願いしたいのは、楽譜そのものではなく、そこに記されている音楽、音なんです」  彼女はそう言ってうつむいた。  確かにそれは意外な申し出だった。わたしは一瞬言葉を飲み込み、楽譜の縁を指でなぞった。楽器を習ったこともなく、音楽の授業も苦手だったので、そこに書かれた音楽がどういうタイプのものなのかは、見当もつかなかった。五線の中に記された、一筆書きの渦巻《うずま》き記号や、天使の羽をつけたような音符が見えるだけだった。  ただそれが印刷されたものでなく、細身のペンで丁寧に清書されたものだったので、彼女にとって重大なものなのだろうという予想は立った。  いったい、音を標本にすることなどできるのだろうか。わたしはその、おと、というあやふやな言葉を繰り返し胸の中でつぶやいてみた。しかしあまり長い時間考え込んでいると、彼女を不安がらせる恐れがあった。それは標本室の理念から外れることだった。 「ここで標本にできないものなんて、何一つありませんよ」  戸惑いを悟られないように注意しながら、わたしは言った。 「そうですか」  彼女は安堵《あんど》したように、微笑《ほほえ》みを見せた。 「皆さん誰でも、最初は自分の品物に不安を持っていらっしゃるんですよ。そういうものなんです。その不安を封じ込めるために、標本があるんですから」  わたしは弟子丸氏に教えられた通りの言葉を繰り返した。 「ただ、標本の形態としては、この楽譜を借りなければならないと思うんです。もちろん実体は音です。標本技術士にその音を伝えるための道具として、楽譜を手放すことはできますか?」 「はい」  彼女はうなずいた。 「じゃあ、手続きをしますので、しばらくお待ち下さい」  わたしは机の引き出しから記録簿を取り出し、必要事項を記入し、楽譜に通し番号をつけた。『26—F30774』だった。それから和文タイプで、標本に貼《は》るシールを作った。 「二日後のお昼までに完成します。完成品は必ず、ご自身で確認にいらして下さい。その時、お代金をいただいて、すべて完了です」 「おいくらくらい、かかるでしょうか」 「それは標本技術士が決めますので、今はっきりとは申し上げられませんが、だいたいレストランのフルコースのフランス料理一人分、というところでしょうか」  わたしは楽譜をそろえ、記録簿と一緒に引き出しにしまった。 「思っていたよりも、ずっと簡単なんですね」  すっきりと何もなくなった机の上に視線を落とし、彼女は言った。 「ええ、簡単なんです」  わたしは微笑んだ。  そのあとわたしたちは、氷のたくさん入ったアイスティーを飲みながら、しばらくお喋りをした。彼女はぽつりぽつりと、楽譜にまつわる思い出話をした。 「わたしの恋人は作曲家でした。誕生日にこの曲をプレゼントしてくれたんです。ビロードで身体《からだ》を包むような、優しい曲です。クリスマスには水彩絵の具を、旅行のお土産にはカメオのハット・ピンをもらいました。彼と別れたあと、絵の具は洗面所に流し、ハット・ピンは土に埋めました。でも音だけは、どうしても消せなかったんです。……」  それは、ありふれてはいるが、切ない話だった。  話し終えると彼女は、残ったアイスティーを飲みほし、ごちそうさまでした、と言って夏の陽射《ひざ》しの中へ消えていった。  五時がきて後片付けをしていると、地下室から弟子丸氏が上がってきた。 「上は暑いね。今度電気屋に、クーラーの調子を見てもらった方がいいな」  そう言いながら彼は机の角に腰掛け、引き出しから一日分の品物を取り出した。 「今日はこれだけ?」 「はい。楽譜に書かれた音楽を、標本にしてほしいという要望です」 「そう。じゃあ明日、309号室婦人に頼んでピアノを弾いてもらおう」   309号室婦人というのは、女子専用アパート時代から残っている二人の老婦人の一人だった。昔はピアニストだったらしく、立派なピアノを持っている。  わたしは音の標本というつかみどころのない依頼に、彼がどう反応するか心配だったが、彼の様子はいつもと同じだった。わたしはいくらかほっとした。 「ところで、今日ちょっと、時間を取ってもらえないかな。話があるんだ」  彼は机の脚を靴《くつ》のかかとでコツコツ叩《たた》きながら、こちらを見ていた。彼はわたしに話し掛ける時、こんなふうにまっすぐ瞳《ひとみ》を向けてくるので、わたしはいつも目のやり場に困った。言うべき言葉が胸の奥に引っ掛かって、息苦しいような気分になるのだった。 「はい」  わたしは小さな声で答えた。  弟子丸氏は何の説明もせず、「僕についてくるように」とだけ言った。彼が案内したのは、一階の一番奥にある浴場だった。そこに、女子専用アパート時代の浴場が残っていることは知っていたが、中に入るのは初めてだった。  彼は曇りガラスの入った引き戸を開けた。それはあちこちで引っ掛かり、ガタガタとくぐもった音をたてた。 「どうぞ、奥へ」  彼はわたしを招き入れた。  中は思っていたより傷《いた》んでいなかった。脱衣場には体重計や、鍵つきのロッカーや、籐編《とうあ》みのかごがきちんとした形で残っていたし、浴室の鏡や、蛇口《じやぐち》や、ブルーのタイルはまだ十分にきれいだった。今すぐにでも使えそうな気がした。ただ、すっかり乾燥し、白っぽく粉をふいているようにさえ見える浴槽《よくそう》の底は、がらんとして淋《さび》しげだった。  わたしたちはその浴槽の縁に並んで腰掛けた。ひんやりとしたタイルと、天窓の透き間から下りてくる風のおかげで、受付室よりずっと涼しかった。 「ここは僕の、秘密の安息所なんだ。女の人を招待するのは、初めてだよ」  彼の声は響き合い、その余韻がいつまでも天井に残っていた。 「それは光栄です」  わたしの声が彼を追いかけ、天井の隅《すみ》で重なり合った。 「仕事のあとはよくここへ来て、しばらくぼんやり過ごす。標本作りは、ある種の神経を酷使するからね」 「そうですね。とても、繊細なお仕事だから」 「ところでここは、デートの場所としても最適だと思わないかい? 誰にも邪魔されないし、清潔だし、音が反響するから、こんなふうに顔を寄せ合って小さな声でささやかなければいけない」  彼がふざけて耳に息を吹きかけてきたので、わたしはびっくりして浴槽の中へ落ちそうになった。彼は笑いながらわたしの肩を押さえた。  両横の壁には蛇口とシャワーのノズルと石けん受けが、等間隔で並んでいた。数えてみると十五個ずつあった。それらはあまりにもすっきりと乾いていたので、浴室のための設備というよりは、前衛的な装飾品のように見えた。  一面をおおっているブルーのタイルは所々に濃淡があり、よく見るとそれが蝶々《ちようちよう》の模様になっていた。どうして浴室に蝶々なのか不思議だったが、ブルーの色合いが上品だったので、奇異な感じはしなかった。蝶々たちは排水口の上や浴槽の側面や換気扇の隣や、あちらこちらに止まっていた。 「君は今年、何歳になった?」  笑いがおさまってから、不意に彼が言った。 「二十一です」  わたしは答えた。 「前から気になっていたんだけど、二十一にしては、君のはいている靴は幼すぎる気がするんだ」  わたしは浴槽の内側でぶらぶらしている自分の足先を見た。その靴はまだ清涼飲料水の工場で働いていた頃に、村の靴屋で買った安物だった。茶色のビニール製で、ヒールは低く、かなりすり減っていた。 「そうですね。確かにあまり、お洒落《しやれ》じゃないわ」 「君の足元を見るたび、いつも気になっていたんだ。君にはもっと、別のタイプの靴が似合うんじゃないかと思ってね」 「そうでしょうか?」 「もちろんさ。僕に、新しい靴をプレゼントさせてほしい」  きっぱりとした口調で彼はそう言うと、脇《わき》に置いてあった紙袋から箱を取り出し、わたしに渡した。  蓋《ふた》を開けると、黒い革靴が一足入っていた。わたしは彼に促され、それを手に取った。シンプルなデザインで、かっちりした作りの靴だった。つま先は優美にカーブし、甲の所には小さめの黒いリボンがついていた。ヒールは五センチくらいあり、細くて硬かった。 「こんな高価な靴を、どうしてわたしに?」 「君は一年間、標本のためによく働いてくれた。これまで何人も事務員が変わったけど、君ほど誠実にやってくれた人はいなかった。おかげで僕も助かってる。そのお礼だよ。僕の選んだ靴を、君にはいてもらいたいんだ。気に入らない?」 「とんでもない。わたしにはもったいないくらい、素敵な靴です」 「よかった。じゃあ、さっそくはいてみて」  そう言うと彼は浴槽の底に下り、わたしの古い靴を脱がせた。  彼は左手でわたしのふくらはぎをつかみ、右手で古い靴をかかとから抜き取った。それはあっけないほどに何の感覚も残さず、足から滑り落ちていった。  むき出しにされたわたしの足は、彼の手の中にあった。彼があまりにもしっかりとふくらはぎを握っていたせいで、わたしは身動きできないでいた。タイルのつぎめに指先を引っ掛けたまま、ただじっと底に落ちた古い靴を見ているしかなかった。それは片方は逆さまになり、片方は横向きに転がり、羽根をむしり取られた二羽の小鳥の死骸《しがい》のように見えた。  それから彼は新しい靴を右足からはかせていった。かかとをつかみ、つま先を靴の奥まで一息に滑り込ませた。かかとに感じる彼の指は硬く冷たかったが、靴の中はなま温かくしっとりとしていた。あらかじめ定められた儀式を司《つかさど》るように、彼の手の動きにはすきがなかったので、わたしは小指の先さえ自由に動かすことはできなかった。  新しい靴は驚くほどぴったり足になじんだ。どこにも無理がなく、足全体が優しく包み込まれているようだった。 「まあ、ぴったりだわ」  わたしは言った。  彼は何も答えず、まだしばらく足を放そうとしなかった。靴の表面を撫《な》でたり、リボンをきつく結び直したりしていた。 「まるで、わたしの足型を取ってから作った靴みたい。でもどうして寸法が分ったんですか」 「僕は標本技術士だよ。足の寸法くらい、見れば分るさ」  彼はそう言ってようやく足を放してくれたので、わたしは足首を回したりつま先を動かしたりして、新しい靴の感触を確かめることができた。 「いいかい、この古い靴はもう捨てるんだ」  彼は転がっていた靴を片手でつかみ、つぶれるほど強く握り締めた。それはもう、ただの古ぼけたビニールの塊になってしまった。あっという間の出来事で、逆らうことはできなかった。 「少し、歩いて見せてくれないか」  彼はわたしを浴槽の底に下ろし、自分は縁に戻って腰掛けた。 「二、三周、ぐるぐる回ってごらん」  わたしは下から彼を見上げ、どうしていいかしばらく戸惑っていた。位置が少しずれただけで、浴室の印象は変わって見えた。目の高さにちょうど、彼が握りつぶしているビニール靴があり、彼の背中の向こうには夕焼けの映った天窓があった。いつもはほっそりとしている白衣の両足が、近くでは強固で大きなものに見えた。浴室はもう、薄暗くなりはじめていた。 「さあ、早く」  わたしには彼の申し出を断る理由が思いつかなかった。靴をプレゼントしてもらったお礼に歩いてみせるのは、何でもない当然のことのようにも思えたが、浴槽の底というのは、特殊すぎる気がした。  いつまでじっとしていても、彼は許してくれそうになかったので、わたしは時計回りの方向におずおずと歩き始めた。ヒールのコツコツという音が、浴室中に響いた。  歩くというありふれた動作が、ここでは難しいことに思えた。底は平らではなく、排水口に向かって緩やかに傾いていたし、タイルの欠けた所にヒールの先が引っ掛かるし、何より彼がひとときもわたしから目を離さないので、身体のあちこちがバランスを崩してぎくしゃくしてしまった。  ただ靴は、どんなわずかな圧迫も透き間もなく、しなやかで軽かった。これだけ自分にぴったりくる靴を、今まではいたことはないと、思えるほどだった。  できるだけ余計なことを考えないよう、わたしはリボンのあたりに視線を落とし、歩数を数えながら歩いた。二十三歩で一周し、きっちりその倍で二周した。途中で四回、蝶々を踏んだ。 「これからは、毎日その靴をはいてほしい」  三周め、十四歩のところで彼が言った。わたしは歩きながら、黙ってうなずいた。 「電車に乗る時も、仕事中も、休憩時間も、僕が見ている時も見てない時も、とにかくずっとだ。いいね」  彼は右手を振り挙げ、ビニール靴をタイルに打ちつけた。空気の裂けるような音が足元から響いてきたが、仕草は決して荒々しくなく、白衣の腕が大きくしなってむしろ優美に見えるくらいだった。わたしはその音を、まだまだ歩き続けなければならない合図のように聞いた。浴槽の底は、もう闇《やみ》に満たされようとしていた。    3  次の日、309号室はちょっとした音楽会という風情《ふぜい》になった。  弟子丸氏とわたしが309号室婦人に例の楽譜を見せ、ピアノで弾いてもらえないだろうかと頼んだ時、彼女は最初、困ったような表情を見せた。 「ここしばらく、ピアノに触っていないものですからねえ。指が動くかどうか……」  彼女は口ごもり、指を曲げたり伸ばしたりした。 「お願いします。標本のために、どうしてもあなたのお力が必要なんです」  弟子丸氏が言った。309号室婦人は小柄《こがら》で、綿のように白い髪を小さくまとめ、涼しげな藍色《あいいろ》のワンピースを着ていた。指は皺《しわ》だらけだったが、のびやかな輪郭や爪《つめ》の形や関節の柔らかさに、昔ピアニストだった頃の面影《おもかげ》が残っていた。  結局彼女は承知してくれたのだが、実際演奏してもらうには、準備が必要だった。   309号室は女子専用アパートの典型的な一室で、五畳くらいの洋室に、コンパクトなキッチン、作り付けのベッド、洗面台、収納タンスなどがセットになっていた。ただ、あいたスペースのほとんどはピアノが占めており、他のものはすべてその大きな影に隠れていた。  しばらく触っていないと彼女が言っていたとおり、ピアノの上にはペン立てや、置き時計や、キャンディーの缶《かん》や、オルゴール付きの宝石箱や、毛糸で編んだポットウォーマーや、古い写真の束や、メトロノームや、とにかくあらゆるものが並んでいて、容易には蓋も開けられない状態だった。まず、それらをどこかに移さなければいけなかった。  どこかと言っても場所は限られているので、ベッドか床の上ということになった。わたしたちは一つ一つの品物を大切に運び、婦人に借りたピアノ専用の布で埃《ほこり》をぬぐった。部屋の片隅で、ほとんど洋服置場のようになっている椅子《いす》を引っ張り出し、座布団《ざぶとん》をのせ、ピアノの前にセットした。  その間婦人はキッチンで、楽譜を読んでいた。  いよいよ演奏が始まる段になって、ここのもう一人の住人、223号室婦人も招待されることになった。彼女は元電話交換手で、今は毎日部屋に閉じこもって手芸ばかりしている、親切なおばあさんだった。  弟子丸氏は試験管立てをピアノの端に置き、そこにかなり大きめの、空の試験管を一本たて掛けた。場所が狭いうえに物があふれていたので、わたしたちはそれぞれに工夫して、腰を下ろすのに適当な場所を確保しなければいけなかった。223号室婦人は扇風機と鏡台の間に正座し、弟子丸氏は収納タンスの横板にもたれ、わたしはベッドの上に並べたキャンディーの缶や宝石箱が落ちないよう注意しながら、そっとその角に腰掛けた。   309号室婦人はまずうやうやしく一礼し、楽譜を広げ、ワンピースのポケットから眼鏡を取り出してかけた。しばらく鍵盤《けんばん》を見つめたあと、そろそろと指を載せた。  それは不思議な曲だった。依頼人はビロードで身体を包むような優しい曲……と言ったが、わたしにはもっと複雑で乾いた感じに聞こえた。メロディーが思いもよらないところへ飛んだり、眠くなるくらい同じフレーズが続いたり、急にテンポが変わったりして、予測がつかなかった。ほんの少しどこかが狂うと、全部ばらばらになってしまいそうだったが、どうにか危ういところでバランスを保っていた。  彼女はしくじらずに演奏を続けていたが、滑らかに磨《みが》かれた鍵盤の上では、指は痛々しいほどに皺だらけで、楽譜を覗《のぞ》き込む目も弱っている様子だった。この音の危うさが、曲本来の姿なのか、それとも歳老《としお》いた指のせいなのか、本当のことは分らなかった。しかし、標本にとってはどちらでも構わなかった。   223号室婦人は、明らかに退屈している様子だった。鏡台の下に転がっていたヘアピンで床をつついたり、扇風機の風向きをあちこち変えてみたりしていた。  弟子丸氏は、音楽そのものにはあまり興味を示していないようだった。腕を組み、遠くを見るような目をして、じっとしていた。  ベッドから垂らしたわたしの足と、彼との間は、ほんの数十センチしか離れていなかった。彼の息遣いさえ、足で感じ取れそうだった。きのうもらった靴《くつ》は、この部屋の玄関口に脱いであった。わたしは時々、靴の方を見た。  相変わらず暑く、外は上天気だった。ベランダから吹いてくる風は弱々しく、309号室婦人の真っ白い後れ毛を、微《かす》かに揺らすだけだった。  何の前触れもなく、不意に曲は終わった。309号室婦人は再び立ち上がり、一礼した。わたしたちはささやかな拍手をした。  弟子丸氏は楽譜を筒状に丸め、試験管の中にしまい、コルクで栓《せん》をした。それから『26—F30774』番のシールをコルクに貼《は》り、依頼人の望む音の標本は完成した。  弟子丸氏に言われたとおり、わたしは毎日、黒い革靴をはいて標本室に通った。色の薄い夏服には、それは重々し過ぎる感じだったが、浴場で交した弟子丸氏との約束を破るわけにはいかなかったので、白い麻のワンピースに黒い革靴という奇妙な組合せになっても、仕様がないのだった。  朝、革靴に足を突っ込む時はいつも、ふくらはぎをつかんでいた彼の指の感触を思い出す。痛いわけではないのに、決してわたしを自由にしない不思議な感触だ。  靴は軽やかで、歩きやすかった。ただある瞬間ふと、両足に透き間なく吸いついてくるように感じることがあった。そんな時は、彼に足だけをきつく抱き締められているような気分だった。  あの日以来わたしたちは、しばしば浴場でデートするようになった。デートというにはあまりにも、いろいろなことが変わりすぎていたが、弟子丸氏がわたしを求めていることは確かだったし、わたしもそれを拒否しなかった。  わたしはまず、浴場のあの“感じ”が気に入っていた。例えば、誰にも乱されていない、しんと張りつめた空気の中を、彼と手をつないで進んでゆく感じや、蛇口《じやぐち》もシャワーも換気扇も洗面器も、何もかもが眠りについているなかで、わたしたち二人だけが呼吸している感じや、どんなささいな音や声でも、なかなか消えずにタイルの壁で響き合っている感じのことだ。  わたしたちはたいてい、浴槽《よくそう》に腰掛けていろいろな話をした。話している間に、段々天窓に映る空の色が変わってゆき、夜がやって来た。すると彼は配電盤のレバーを上げ、明りをともした。  明りがつくと浴室は、また違った雰囲気《ふんいき》になった。オレンジがかった光は広い浴室全部を照らすには弱すぎ、四隅《よすみ》のあたりではぼやけていたが、浴槽の底のタイルはつやつやと照らし出していた。すりガラスには中庭の緑が影になって映り、風が吹くとゆるやかに揺れた。 「ここが昔、本当の浴室だった頃《ころ》のことを想像すると、妙な気分になるよ」  弟子丸氏が言った。 「すべてが湯気の中に霞《かす》んで見えて、ガラスは水滴に濡《ぬ》れ、浴槽はお湯で満ちている。笑い声や、水の流れる音や、石けん箱の落ちる音が響き合って、女の人が何人も何人も、蛇口の前に並んで身体《からだ》を洗っている。しかもみんな、裸なんだ」 「その中に、309号室婦人も、223号室婦人もいたのね」 「そう。だけど、あんなおばあさんじゃない。二人とも今の君と同じくらい若いんだ。一人は指を丁寧に洗う。石けんをたっぷりつけて、一本ずつもみほぐしながら、ぴかぴかに磨き上げる。もう一人はのどだ。一日中電話に向かって喋《しやべ》り続けて、くたくたに疲れているから、のどをシャワーで温めるんだ」 「そんな時代があったなんて、信じられないわ」 「今ではすべてが乾ききっている。一粒残らず水滴も泡《あわ》も消えてしまった。ピアニストの指も、電話交換手の声も歳老いて、残ったのは僕たち二人だけだ」  そう言って彼はわたしの手を引っ張って浴槽の底に下ろし、洋服を脱がせた。ブラウスのボタンを上から順番に一個ずつ外してゆき、フレアースカートのファスナーを下げた。花びらが散るように、それらは身体からはがれ落ちていった。  彼の指は冷静に的確に動いた。衿《えり》の下に隠れた一番上のボタンも、フレアーのひだの奥にあるファスナーも、すぐに探りだした。同じようにして、わたしの小さな下着も取り去った。  すべての手順があらかじめ決められているかのようだった。何もかも彼が取り仕切った。わたしはただじっと立ちつくし、ボタンやホックが外れるわずかな音に耳を傾けるくらいしか、ほかにすることがなかった。  とうとうわたしは、裸にされた。たった一つ、黒い革靴だけを残して。  どうして彼が靴を脱がしてくれないのか、分らなかった。彼の指が止まったあと、茶色いビニール靴を脱がされた時と同じようにしてくれるのを、わたしは待っていた。しかしいつまで待っても、彼は革靴に手を伸ばそうとはしなかった。  オレンジの光にさらされたわたしの肩や胸は、ゆっくりと冷えてゆくのに、靴に包まれた足先だけはいつまでも温かかった。自分が足首のところで、二つに分離してしまったようだった。黒いリボンが甲の真ん中に、ぽつんと止まっていた。  そのあとわたしたちは、浴槽の底で抱き合った。 「星が見えるね」  と、彼が言った。わたしの髪に彼の息がかかった。天窓に小さな星がいくつも散らばっていた。 「明日《あした》もまた、暑くなるかしら」 「たぶんね」 「暑い日が続くと、標本の依頼人があまり来てくれないわ」 「涼しくなれば、また忙しくなるさ」 「本当?」 「ああ。毎年そうさ。夏は静かなんだ」  わたしたちはしばらく、とりとめのない話をした。  彼はわたしをとてもきつく抱いていた。でももしかしたら、抱くという言い方は不適当なのかもしれない。今、二人の身体がどういう具合になっているのか、自分でもうまく説明できなくて、わたしは混乱していた。こんなふうに誰かと——しかも閉鎖された浴室で——触れ合うことなど、今までなかったからだ。  相変わらずわたしは靴だけを身に付け、彼は白衣を着ていた。彼が取り去った衣服は、浴槽の片隅で丸まっていた。わたしたちは排水口の方に足を向け、タイルの上に直接横になっていた。彼は大きな腕でわたしを包んでいたが、身体の感触を味わおうとする柔らかい抱き方ではなく、わたしを自分の内側にすっぽり密着させるような、胸苦しい抱き方だった。  タイルと白衣がわたしを締めつけていた。苦しいけれど辛《つら》くはなかった。目を閉じ、耳を澄ますと、夜の闇が中庭を漂う気配が感じ取れた。 「君は何か、標本にしてもらいたいものを持っているかい?」  不意に彼が聞いた。わたしたちはあまりにもぴったりと身体を寄せ合っていたので、お互いの表情を見ることはできなかった。彼の声が耳元を通り過ぎてゆくのを、感じるだけだった。 「分らないわ」  しばらく考えてから、わたしは答えた。 「本当はそういうものを持っているのに、自分では気づいていないだけなのかもしれないし、最初から標本なんか、必要としていないのかもしれない」 「標本を必要としない人間なんていないさ」 「そうかしら」 「この標本室と出会える人間は限られているけど、本当は誰でも、標本を求めているものなんだ」 「わたしも? それから、あなたも?」 「ああ」  彼はうなずいた。  わたしの目の前に、ちょうど白衣の胸元の、淡い染みがあった。それは微かに薬品の匂《にお》いがした。わたしの声は全部、白衣の中に吸い込まれていった。 「何を標本にしたいか、よく考えてみるんだ。必ず何かあるはずだから」  彼はわたしを包む両腕に力をこめた。腰骨《ようこつ》や肩甲骨《けんこうこつ》やふくらはぎに当たるタイルが、ざらざらしていた。  わたしは言われたとおり、標本について考えてみた。目を閉じると、一番最初に見たきのこの標本が浮かんできた。試験管のガラスには、薬指が映っていた。 「少し、考え方を変えてみよう。今までで一番、悲しい思いをしたことは何?」  わたしは目を開けた。 「悲しい思い……。そうねえ、考えてみたらわたし、それほど悲しい思いをしたことがないような気がする。幼稚な悲しみはいくらでもあったけど、本当の悲しみにはたぶん、まだ出会っていないのよ」 「じゃあ、一番、みじめな思いをしたことは?」 「みじめ……。難しい言葉だわ」  わたしは口ごもり、ため息をついた。遠くでピアノの音がした。あの演奏会以来、309号室婦人はまた少しずつ、ピアノを弾きはじめていた。 「一番、恥ずかしい思いをしたことは?」 「…………」  ピアノの音は途切れ途切れに聞こえた。 「一番、痛い思いをしたことは?」 「…………」  彼の声とピアノの響きが耳の奥で溶け合った。背中にあたるタイルが痛くて、向きを変えたいと思ったが、二人の間にそんな透き間は一ミリも残っていなかった。わたしの足は白衣の中で縮こまっていた。そして靴は、しっかりと足先に吸いついていた。 「さあ、考えて。一番、痛い思いをしたことだ。痛くて、苦しくて、怖い思いだよ」  彼の口調はずっと変わらず穏やかだったが、言葉の一つ一つは冷やかだった。そういう言葉を彼は、いくつもいくつも隠していた。いつまで黙っていても、彼はあきらめてくれそうになかった。 「左手の薬指の先を、なくした時です」  わたしは、そうつぶやいた。 「それは、どこへ消えてしまったの?」  わたしの声の残響が全部消えてから、彼は言った。 「サイダーの中へ落ちたんです」 「サイダーの中?」 「そう。サイダー工場で、機械に挟《はさ》まれてしまったんです」 「それから、どうなったの?」 「どうにもなりません。サイダーを桃色に染めながら、ゆらゆらと落ちてゆく自分の指を、ただぼんやり眺《なが》めていただけ」 「じゃあもう、君の薬指は、元に戻らないんだね」  わたしは白衣の胸元に頬《ほお》を押しつけながら、うなずいた。  それ以上彼は何も喋らなかった。あまりにも長い時間動けなかったので、わたしは彼の中で、標本にされてしまったような気分だった。    4  夏の陽射《ひざ》しが去り、秋風が吹き始め、ようやく黒の革靴が似合う季節になると、弟子丸氏が言ったとおり、依頼人の数は少しずつ増えてきた。彼はほとんど地下の標本技術室にこもりきりで、夜、浴場で会う以外、なかなか顔を合わせる機会はなかった。  保管すべき標本の数も増える一方で、わたしが初めてここへ来た時は、標本保管室として101号室から302号室までが使われていたが、——もちろん、223号室はとばしてある——秋の訪れとともに303号室も保管室の仲間入りをすることになった。わたしたちはまず窓を開けて風を通し、埃《ほこり》を払い、拭《ふ》き掃除をした。それから、部屋の大きさに合わせて特別注文してあるというキャビネットを、壁に取り付けると、標本保管室の出来上がりだった。何もかも、わたしたち二人だけでやった。 「ここにはいったい、いくつ部屋があるのかしら」  作業の合間に、わたしは彼に尋ねた。 「430号室までさ」  キャビネットのねじをドライバーで締めながら、彼は答えた。 「ここの標本が減ることはないの?」 「それはありえない」 「全部保管室にして、それでもまだ足りなくなったらどうするの?」 「図書室がある。卓球台を処分すれば遊戯室も使える。それに、浴場も」 「浴場が保管室になってしまったら、わたしたちはどうなるの?」 「どうにもならないさ。何も変わらない。それに、ここは君が想像している以上に懐《ふところ》が深いんだ。心配はいらないよ」  そう言って彼は二つめのねじを締めた。  雨の降る朝、一人の少女がやってきた。長い髪を後ろで一つに束ね、オーソドックスなデザインのワンピースを着ていた。彼女は傘《かさ》の先からこぼれ落ちる雨のしずくを気にしながら、受付室のドアを開けた。 「よくいらっしゃいました。傘はそのあたりに、たてかけておいて下さって結構ですよ。傘立てがないものですから、ごめんなさい。さあ、どうぞ、お掛けください」  わたしは言った。 「失礼します」  彼女は礼儀正しくお辞儀をし、わたしの向かいに腰掛けた。  しばらく彼女は目を伏せたまま、黙っていた。髪の結び目のところに、雨のしずくが光っていた。膝《ひざ》の上に置いた指を何度も組み替え、緊張している様子だった。 「何か飲み物を作るわ。温かいものがいいかしら」  わたしは奥のキッチンに入り、冷蔵庫に作り置きしていたレモネードを温め、ピーナッツチョコレートと一緒に出した。ここのキッチンは小さいのだが、どんな依頼人の好みにも応《こた》えられるように、あらゆる種類の飲み物とお菓子がそろえられていた。依頼人の雰囲気から、その人に一番ふさわしい飲み物とお菓子を選ぶのも、わたしの仕事の一つなのだ。サイダーだけはなかったのだが。 「いただきます」  彼女はコップを両手で包み、そろそろと口をつけた。 「実はわたし、ここへ来るのは初めてではないんです」  レモネードを一口飲み込んでから、彼女は言った。 「それじゃあ、自分の標本に会いにいらしたのね」 「いいえ、違うんです」  彼女は首を横に振った。その時わたしは、視界の隅にふと引っ掛かるものを感じた。決して不快な感じではなく、遠慮深くわたしを引き止めようとする、ひそやかな感じだった。わたしは二、三度まばたきをした。  彼女の頬には火傷《やけど》の跡があった。でも決して、ひどいものではない。模様の入ったベールの切れ端が被《かぶ》さっているような、目立たない、淡い火傷だった。その傷跡を透かして、彼女の頬の白さが見えてきそうなくらいだった。 「一人で二つ、標本をお願いすることなんて、できるでしょうか」  わたしは彼女が、弟子丸氏に初めて見せてもらったあのきのこの標本を、依頼した少女だと直感した。 「一年くらい前に、ここで標本を作ってもらったことがあるんですけれど……」  チョコレートを入れたガラスの器のあたりに視線を落とし、彼女は言った。 「また別の何かを、標本にしたくなったんですね」  わたしは火傷の跡を見つめたまま言った。 「はい。でも、無理なお願いだったらいいんです。今まで、二つも標本を依頼した人はいましたか?」 「そうですねえ。わたしはまだここへ来てそれほど長くないので、はっきりしたことは分りませんが、記録簿を調べればそういう前例は出てくると思いますよ。でも仮に前例がなかったとしても、心配はいりません。あなたの依頼を拒否する理由は、何一つありませんから。標本室には規約というものがないんです。標本室の内側にいる限り、すべてが解放されているんです」 「ああ、よかった」  初めて彼女は少女らしい明るい声を出し、二口めのレモネードを飲んだ。 「もしかしたら、ここであなたが最初に標本にしたのは、三つのきのこではありませんでしたか?」 「はい、そうです」  彼女は答えた。 「やっぱり。あの標本のことはわたしもよく憶《おぼ》えているわ。ここへ来た時、一番初めに見せてもらったのが、その標本だったの。保存液の中でつやつや光って、生きているみたいにゆらゆら動いて、きれいだったわ。今でも302号室に、きちんと保管されています。保存状態はとてもいいですよ。ひだの一つ一つ、胞子の一粒一粒まで変わりありません。お持ちしましょうか」 「いいえ」  彼女はレモネードから手を離し、立ち上がろうとしたわたしを押しとどめた。 「いいんです、きのこのことは」  あの標本にはもう、興味がない様子だった。  雨はまだ降り続いていた。彼女の傘が床に小さな染みを作っていた。子犬が一面にプリントしてある、赤い把手《とつて》のかわいらしい傘だった。どこか遠くでサイレンの音がしていたが、すぐに聞こえなくなった。  わたしは一つ咳払《せきばら》いをし、ピーナッツチョコレートの入った器を彼女の正面に持っていって、食べるように勧めた。彼女はしばらくチョコレートを、あるいはガラスの器を眺めていたが、手をのばそうとしなかった。天井の明りが頬の模様を照らしていた。 「いずれにしても、二度も利用して下さるなんて、標本室の人間とすれば、ありがたい話です。ここの標本を気に入って下さった証拠ですもの」  彼女はあいまいにうなずいた。 「それで、今回新たに標本にお望みの品物は何ですか」  わたしは水を向けてみた。彼女はうつむいたまま、束ねた髪の先を撫《な》でながら、しばらく黙っていた。雨の音だけが聞こえていた。わたしは辛抱強く待った。 「この、火傷です」  透き通った声で、彼女は言った。  神秘的なおまじないをとなえるように、わたしはその言葉を胸の中で繰り返した。  火傷、火傷、やけど、ヤケド……。  雨の音に溶けて、彼女の声がいつまでも響いていた。  彼女は束ねた髪が邪魔にならないよう、火傷のある頬とは反対の肩に髪を垂らし、わたしに横顔を見せた。最初の頃《ころ》に比べると、彼女の頬はいくらか赤みを帯び、その模様を余計繊細に浮き上がらせていた。細い血管の一筋一筋が、透けて見えているかのようだった。耳も目元も唇《くちびる》も、その頬ほどには魅惑的でなかった。わたしはそこを指先で撫でてみたい気持にかられ、それを押さえるために、小さなため息を一つついた。  結局わたしはどうしていいか分らず、地下室の弟子丸氏を呼びに行った。 「雨の中、よくいらっしゃいましたね」  弟子丸氏は両手を白衣のポケットに突っ込み、管理人室時代の金庫にもたれてそう言った。彼女は口元だけで微笑《ほほえ》んだ。  弟子丸氏が姿を見せても、彼女の様子に変化はなかった。緊張はしているようだが、おどおどした感じはなく、もの静かで、チョコレートの器のあたりから、あまり視線を動かさなかった。わたしたちにちょうどいい角度で頬の模様を見せられるよう、意識しているかのようだった。 「もう一度、確認したいのですが、火傷の跡を標本になさりたいのですね」  彼は右手をポケットから出し、彼女の頬に向けてのばした。二人の間には距離があったけれど、指の表情があまりにも優しく、慈《いつく》しみに満ちていたので、彼が傷跡をそっと撫でているかのような錯覚を呼び起こした。 「そうです」  いつまでも彼女は、頬の角度を変えようとしなかった。 「大事な問題が一つあります。標本にするということと、傷跡を治すということは、全く別の事柄《ことがら》です。それはお分りですか?」 「もちろんです。標本をお願いすることで、傷跡を消したいだなんて思っていません。わたし、きのこの時の経験がありますから、普通の人よりはいくらか詳しく、標本について知っているつもりです。わたしが望んでいるのは、標本そのもの、それだけです」 「分りました。そういうことなら、あなたのご希望をかなえられると思います。何と言ってもここは、標本室なのですから」  弟子丸氏は言った。彼女は安堵《あんど》し、髪の束を元の位置に戻した。  彼の標本室に対する定義は、依頼人や品物の種類によって、そのつど微妙に変化していくが、依頼人を安堵させるという点においてはいつも同じだった。大げさでなく、卑下しすぎることもなく、冷静で、しかも十分な思いやりを忘れないのだった。 「それではあなたを、標本技術室へご案内します」  そう言って彼は、大事な壊れ物を包むように彼女の肩に腕を回し、椅子《いす》から立ち上がらせた。彼女は素直に従った。 「標本技術室へ、行くのですか……」  独り言のようにわたしはつぶやいた。彼は何も答えなかった。わたしはまだあの地下室へ行ったことがなかった。廊下の突き当たりにある、樫《かし》の木でできた重い扉《とびら》の向こうが、どうなっているのか知らなかった。 「記録簿の記入とシールのタイプ打ちは、頼んだよ」  戸口のところで振り返り、彼は素っ気なくそう言い残した。  長い廊下を進み、樫の木の扉の向こうに消えてゆく二人の背中を、わたしは見送った。肩に回した白衣の腕は、髪や背中や首筋を全部包み込んでいるかのように、大きく見えた。彼女は模様のある頬を、彼の胸に押し当てていた。二人はゆっくりと歩いた。  浴場でこの靴《くつ》をはかせてくれた時、彼の手はあんなに優しかったかしら、とわたしは胸の奥でつぶやいた。わたしは革靴の先で床を小さく叩《たた》き、あの時のふくらはぎの感触を呼び戻した。そしてその同じ指が、頬の模様を細密に撫でてゆく様を、繰り返し思い浮かべた。  樫の木の扉が、きしみながら閉まった。机の上で、ピーナッツチョコレートはすっかり柔らかくなっていた。  日が暮れても、雨は止《や》まなかった。小降りにもならないし、ひどくもならなかった。メトロノームではかったように、ずっと同じ調子で降り続いた。  わたしは受付室で依頼人の来訪を待ちながら、いつ火傷の彼女が標本技術室から出てくるだろうと、そればかり気にしていた。廊下がよく見える場所に椅子をずらし、樫の木の扉に向けてずっと耳を澄ましていた。  その間にも何人か依頼人がやってきた。ドイツ製のジャックナイフを持ってきたハンサムな青年と、ピルケースに入れた練り香水を持ってきた厚化粧の女性と、文鳥の骨を持ってきたおじいさんだった。  注意力が散漫になっていたせいか、わたしはいくつか小さな失敗をした。ピルケースの蓋《ふた》を床に落としたり、タイプを打ち間違えたり、書類にコーヒーをこぼしたりした。でも依頼人はみんな親切だったので、笑って許してくれた。  最後に来たおじいさんは灰色の作業服姿で、手に薄汚れた巾着袋《きんちやくぶくろ》を下げていた。腰掛けると同時に、何も言わずその巾着袋を逆さまにし、中身をバラバラと机の上に広げた。 「何ですか、これは」  わたしは聞いた。 「文鳥の骨さ」  しわがれた声でおじいさんは答えた。 「十年近く一緒に暮らしてたんだが、おととい死んじまった。老衰だ。しょうがねえな、寿命だから。火葬にしてやったんだ。残ったのが、この骨だ」  おじいさんは染みだらけの太い指で机の上を差した。  骨は白くて細く、きれいだった。ゆるやかにカーブしていたり、先に小さな突起がついていたり、一個一個が全部違う形をしていた。鎖をつけると、洒落《しやれ》たペンダントにでもできそうだった。わたしは一つ手に取ってみた。頼りないほどに軽く、わずかにざらりとした感触が残った。 「で、標本にしてくれるんだろ?」  おじいさんはポケットからタオルを引っ張り出し、額と髪についた雨のしずくをぬぐった。 「ええ、もちろん」 「そりゃあ助かった。埋めてやろうにも、アパート暮しで庭がないんだ。海に流すっていっても、カモメや海猫《うみねこ》ならいいけど、こいつは文鳥だからよ。かわいそうじゃねえか。あれやこれや悩んで、ここへ持って来たんだ。標本にしてもらえりゃあ、こいつも成仏《じようぶつ》できるさ」  おじいさんが喋《しやべ》っている間も、わたしは窓の向こうの廊下に目をやることは忘れなかった。 「ところでお嬢さん。あなた、いい靴はいてるねえ」  タオルをぶらぶらさせながら、おじいさんが言った。 「そうですか?」  急に靴のことを持ち出されてわたしはどぎまぎし、自分の足元を見た。 「最近、なかなかそういういい靴には巡り合えないねえ。きりっとしてて、媚《こ》びたところがなくて、意志の強そうな靴だ。それに何より、あなたの足によく合ってる。まるで、生まれた時から足にくっついているみたいに見えるよ」 「靴のこと、詳しいんですね」 「そりゃそうさ。五十年も靴磨《くつみが》きやってるんだから。一目見りゃあ、材質でも、値段でも、年代でも、メーカーでも、何でも分るさ。しかしその靴はちょっとしたもんだよ。五十年磨いてても、一回巡り合えるかどうかっていう代物《しろもの》だ」  おじいさんは空になった巾着袋とタオルを一緒にして丸め、ポケットに押し込んだ。 「でも一つ、忠告しとく。いくらはき心地がいいからって、四六時中その靴に足を突っ込むのは、よくないと思うよ」 「なぜですか?」 「あまりにも、お嬢さんの足に合いすぎてるからさ。外から見ただけでも、怖いくらいだ。ずれがなさすぎるんだよ。靴と足の境目が、ほとんど消えかかっているじゃないか。靴が足を侵し始めてる証拠だよ」 「オカス?」 「ああ、そうだ。ごくまれに、そういうすごい靴があるんだよ。足を侵しちゃうような靴がね。俺《おれ》も一度だけ、四十二年前にこれと同じタイプの靴を磨いたことがある。だから分るんだ。悪いことは言わない。それをはくのは、一週間に一度くらいにするんだな。そうじゃなきゃお嬢さん、自分の足を失《な》くすことになるよ」  おじいさんは机の上で、文鳥の骨を転がした。 「四十二年前のその靴をはいていたのは、どんな人でしたか?」  わたしは尋ねた。 「兵隊さんさ。義足にはかせた靴だった」  骨がコロコロ乾いた音をたてた。ポケットからはみ出した巾着袋の紐《ひも》が揺れていた。わたしは爪先《つまさき》で黒いリボンをつついた。 「まあ、余計な話だったかもしれないな。忘れてくれていいさ。職業病で、どうしても人の足元ばっかり気になってしまうんだ。でももしよかったら、いつか俺にその靴を磨かせてくれないか。大通りの三丁目の歩道橋の下にいつもいるからさ。特製のクリームすり込んで、ぴかぴかに磨いてやるよ」  おじいさんは立ち上がった。 「どうもありがとう」  わたしは言った。 「いやいや。ところで、標本、よろしく頼むよ」 「はい。おまかせ下さい」 「じゃあ、またな」  手を振って、おじいさんは出ていった。あとに微《かす》かに、靴墨のにおいが残った。  おじいさんが帰ってすぐに、五時のサイレンが鳴った。標本技術室の扉は、静かなままだった。わたしは受付室の戸締まりをし、廊下に出て耳をそばだてた。でも聞こえるのは、雨の音だけだった。  わたしはまだ一度も開けたことのないその扉の前に立ち、ノブを握ってみたが、動く気配はなかった。重い鍵《かぎ》が何重にも掛かっている様子だった。仕方なく、扉に耳を押し当て、目をつぶってみた。  向こう側は深い静けさの森だった。すべてのものがしんと息をひそめ、ただ静けさだけがゆっくりと渦《うず》を巻いていた。わたしは長い時間、そのうねりだけを聞いていた。しかしいつまで待っても、何も起こらなかった。    5  あれ以来、火傷《やけど》の少女の姿は見ていない。あの日、雨が止み、ぼんやりと月が見え始めるまで、わたしは扉の前で待ったけれど、少女も弟子丸氏も現われなかった。  次の朝出勤すると、いつものように弟子丸氏は受付室でコーヒーを飲みながら、記録簿に目を通していた。どこにも変わったところはなかった。わたしがあいさつすると、やあ、と言って片手を上げた。そしてキッチンでカップを洗い、長い廊下を音もなく歩き、標本技術室の扉の向こうへ消えていった。少女のことには、一言も触れなかった。  ふと気がつくと、子犬の柄の傘《かさ》がなくなっていた。前の日それが立てかけてあったあたりの床は、もうすっかり乾いていた。  それからの一週間、わたしは仕事の合間を縫って、標本保管室をくまなく回った。火傷の標本を探すためだ。  まず最初は303号室だった。そこは一番新しい保管室なので、標本の数はまだ少なかった。ふさがっているキャビネットの引き出しは、五分の一くらいだった。だから、そこに火傷の標本がないということは、大して時間をかけなくても分った。  引き出しには一個一個、ビー玉のような小さなつまみがついていて、それが規則正しく並んでいた。その引き出しに入りきらない大きさの試験管は、キッチンの壁にしつらえた特別用キャビネットに収められていた。  わたしは一番最近開けられたと思われる引き出しのつまみを、引っ張ってみた。中には、文鳥の骨の標本が入っていた。それは保存液の中を漂っていた。わたしはそっと、引き出しを元に戻した。   303号室全部の引き出しを開けてみたけれど、彼女の火傷はなかった。わたしは念のために、もっと古い保管室も調べてみることにした。  部屋番号をさかのぼればさかのぼるほど、引き出しのつまみも、試験管のシールも、標本も、中にこもった空気も、古くなっていった。キャビネットの間を歩くと、降り積もっていた時間が粉雪のようにふわふわと、足元から舞い上がってくる気がした。  キャビネットが窓をふさいでいるせいで、保管室は昼間でも薄暗かった。スイッチを入れると、天井の光がくすんだ空気をオレンジ色に染めた。  わたしは根気強く引き出しを開けていった。古い引き出しは滑りが悪く、ぎしぎし軋《きし》んだ。標本の種類は、今とそれほど違いはなかった。ただ、試験管のガラスは分厚く、保存液は淡い褐色《かつしよく》に変色していた。  いろいろな標本があった。ヒヤシンスの球根や、知恵の輪や、インク壺《つぼ》や、かんざしや、ミドリ亀《がめ》の甲羅《こうら》や、靴下どめが、眠っていた。もう長い間、誰の手にも触れられず、忘れ去られている様子だった。引き出しを動かすと、それらは試験管の保存液の底で、怯《おび》えたように震えた。  古い保管室は不思議な匂《にお》いがした。他の何かにたとえることができない、初めての匂いだったが、嫌《いや》な感じではなかった。一個一個の標本に封じ込められた過去の時間が、わずかずつこぼれ出し、混ざり合ってあたりを漂っているようだった。深く息を吸い込むと、その匂いが胸を満たした。  火傷の標本とは、一体どういうものなのだろうと、数えきれないほどの引き出しの前でわたしは思った。弟子丸氏の左手の指は、彼女の健康な方の頬《ほお》を押さえ、右手の指は傷跡の模様をなぞりながら、慎重に継目を探り当ててゆく。継目が見つかると、人差し指と親指で、破れないように気をつけながらゆっくりと剥《は》がしてゆく。途中で引っ掛かって失敗しそうになっても、あせらない。彼の息が彼女の頬を温めるくらい、二人は近づいている。彼女は目を閉じ、時々ぴくりと目蓋を震わせる。  頬から引き剥がされた火傷は、他の標本と同じように、保存液の中に沈んでいるのだろうか。それはやはり、模様の入ったベールの切れ端のように、薄くて透明で細やかなものに違いない。そして所々にはまだ、彼女の皮膚から染み出した血液がついていて、それが保存液を桃色に染めるのだ。薬指の肉片が、サイダーを染めたように……。  そんな風景を思い浮かべながら、残らず標本を調べていった。でも、こんなことをしても、一番見たいものは見つからないだろうという予感はしていた。ここにあるのは、ありふれたただの標本ばかりだった。  とうとうわたしはあきらめて、床に坐《すわ》り込んだ。靴のリボンが埃《ほこり》で汚れていた。火傷の標本が見つからないことよりも、弟子丸氏が彼女に何をしたのか、彼女を何処《どこ》へやってしまったのかという想像の方が、わたしを息苦しくした。309号室からもの淋《さび》しいピアノの音が聞こえてきた。309号室婦人の歳老《としお》いた指は、どんな曲でも全部、もの淋しい響きにしてしまうのだった。わたしは、ため息をついた。  少女と傘が消えてからも、——もしかしたら、わたしの知らないどこかの出口から、家へ帰っただけのことなのかもしれないけれど——弟子丸氏とわたしの毎日に変化はなかった。途切れることなく依頼人が現われ、何らかの品物を置いてゆき、彼はそれを標本にした。保管室の引き出しは、一個ずつふさがっていった。  そして時々彼はわたしを浴場へ誘い、靴だけの姿にした。  秋も深まったある日、五時のサイレンが鳴り、いつものように彼が地下室から上がって来た。彼は自分でコーヒーを入れ、くつろいだ感じでその日一日の品物をチェックしたり、中庭を舞う落葉を眺《なが》めたり、「そろそろストーブの用意をしなくちゃなあ」と独り言を言ったりした。わたしは決められた手順通り、黙って後片付けをした。明日の予約表を磁石で黒板に止め、大切な書類を引き出しにしまい、鍵を掛け、湯沸器の元栓《もとせん》を閉めた。  この後片付けのひとときは、わたしをひどくどきどきさせる。彼がわたしを浴場へ誘ってくれるかどうか、このひとときに決まるからだ。「ごくろうさま」と一言だけ残して出ていってしまうか、その大きな掌《てのひら》を背中に押し当て、浴場に続く廊下へわたしを導くか、二つに一つだ。  後片付けをしながらわたしは、彼のささいな仕草にさえ神経を尖《とが》らせる。彼の誘いをわたしは一度も断ったことがない。背中の掌がしっかりと身体をとらえているので、とても逆らう気分にはなれないのだ。反対にわたしの方から誘うこともない。「ごくろうさま」の一言が、あまりにも無感動にこぼれ落ちてくるからだ。  その日、和文タイプの点検に業者の人が来たせいで、活字盤が機械から取り外され、そのまま机の上に置かれていた。それを元に戻そうと持ち上げながらも、これから彼が浴場へ行くつもりなのかどうか気になっていた。活字盤は鉛色の重い金属の箱で、五ミリくらいの正方形の升目に区切られており、その一個一個に全部、活字が詰まっていた。少しでも動かすと、活字がざわざわと揺れた。  それを抱えたままタイプの方に一歩踏み出した時、視界の中を弟子丸氏の足が横切り、わたしはつまずいて活字盤を落としてしまった。活字が一本残らず床に散らばった。  最初は何がどうなったのか、よく分らなかった。ひどい音がしたはずなのに、耳の奥はしんと静まりかえっていた。しっかりと握っていたはずの活字盤をなぜ離してしまったのか、彼の足がどうしてわたしの前にのびてきたのか、その一瞬を思い出そうとしたのに、何も浮かんでこなかった。  彼はコーヒーカップを持ったまま、床に視線を落としていた。びっくりした様子もあきれた様子も怒った様子もなかった。数え歌を口ずさみながら活字を数えているかのように、落ち着いて見えた。  しかし実際、活字は数えきれないほどあった。漢和辞典の見出し語が、全部ばらばらにこぼれ落ちたのと同じだった。わたしはつまずき、ひざまずいたままの姿で、しばらくじっとしていた。 「さあ、拾うんだ」  彼が言った。決して冷淡な言い方ではなかった。むしろ諭すような穏やかさがあった。 「一個残らず、元に戻すんだ」  彼は足元にある活字を一個、靴の先で蹴《け》った。それはわたしの前に、転がってきた。□という活字だった。  とにかく最初の一個から始める必要があった。明日の朝、依頼人がやって来るまでに、元通りにしておかなければならなかった。わたしはそれを拾い上げた。  活字は四角柱の小さな金属で、文字と反対側の先端に、収まるべき盤の升目の番号が彫ってあった。□は56—89だった。わたしは升目を指でたどり、56—89へ差し込んだ。広い活字盤がようやく一個だけ埋まった。  活字は部屋中のあらゆるところへ飛び散っていた。どこからか迷い込んだ無数の灰色の昆虫《こんちゆう》が、じっと息をひそめているかのようだった。そして部屋の真ん中で口を開けている空《から》の活字盤は、深い洞窟《どうくつ》の入り口のように見えた。ごく当たり前のいつもの受付室が、恐ろしく歪《ゆが》んでいた。床にかがみ込むわたしと、壁にもたれている彼の間を夕闇《ゆうやみ》が漂い、わずかに残った光が活字だけを鈍く照らしていた。  椅子《いす》の下や、金庫と床の透き間や、カーテンのひだの中を、わたしは四つ這《ば》いになって探した。どんな片隅《かたすみ》にも活字は落ちていた。□が埃をかぶっていたり、□と□と□が重なり合ったりしていた。ごみ箱の陰に隠れていた□は、その日わたしが最後にタイプした活字だった。よれよれの背広を着た中年男性が持ってきたのは、雲母の結晶で、それを登録するためにタイプしたものだ。一時間もかけて彼が話してくれた、雲母の結晶についての物語は、どんな粗筋だっただろうなどとぼんやり考えながら、それを拾った。小さな四角柱は左手でつまむと、欠けた薬指の先にうまく収まった。活字はどれも冷たかった。  弟子丸氏は腕組みし、わたしを見下ろしていた。一個の活字を拾ってくれるわけでも、升目に差し込んでくれるわけでもなく、ただじっと、わたしの折れ曲がった膝《ひざ》や、そんな格好でも決して脱げない革靴や、床を掃くスカートの裾《すそ》を見張っているだけだった。彼の視線が、受付室の空気を全部支配していた。  膝がだんだん痛くなってきた。腕が痺《しび》れ、目もちかちかしてきた。もう長い時間、何の変化もなかった。彼は見張り、わたしは這いつくばる、それだけだった。一度だけ彼が腕をのばし、部屋の電気をつけた時は、この抽象的な風景が少しは違って見えるようになるだろうかと期待したが、明かりに目が慣れてしまうと、すべてが同じそのままだった。  彼のまわりにも、まだたくさん活字が残っていた。彼の足元でわたしは、無防備な小動物になってしまったような気分だった。何をされても、指の関節を踏み付けられても、背中を蹴られても、短い悲鳴を上げるだけで、それでも休みなく活字を拾い続けるのだろうかと思った。でも実際は、彼の足はぴくりとも動かなかった。  彼の靴をこんなに近くで見るのは初めてだった。それはわたしがもらった靴と同じ意味で、完璧《かんぺき》だった。彼の足を見事に包んでいた。どんな小さなかたくずれも、汚れもなかった。これを文鳥の骨のおじいさんが見たら、何と言うだろう。  いつの間にか外は真っ暗で、空の遠くに月が見えた。中庭の銀杏《いちよう》も植木鉢《うえきばち》もスコップも、闇の底に沈んでいた。309号室婦人と223号室婦人は眠ってしまったのだろうか、上では物音一つしなかった。すべてが沈黙のうちにすすんでいった。ガラスに自分の姿が映っていた。まるで彼の靴に口づけしているかのようだった。  どれくらい時間が過ぎたのだろう。夜はどんどん深まってゆき、行き着くところまで行ったあと、今度はゆっくりその闇の色を薄めていった。小鳥が鳴き始め、新聞配達のバイクが走り抜けていった。月が消えようとしていた。わたしは最後の活字——それはこの長い作業の終わりにふさわしい、のどかで美しいことば、□だったが——を23—78に差し込んだ。  それが、カチリ、と小さな音を残し活字盤に収まるのを見届けてから、わたしは疲れ切って床に寝転がった。 「これで、全部だね」  ようやく彼は見張りをやめ、わたしのそばに近寄ってきた。 「一本残らず、元通りだね」  長い間無音だった部屋の中を、彼の声が響いてきた。わたしには返事をする元気もなかった。身体の隅々まで、彼の視線でぐるぐる巻きにされ、身動きできなかった。わたしは目を閉じた。自分で自由にできるのは、目蓋《まぶた》くらいなものだった。  彼はわたしの耳元でひざまずき、肩を抱きかかえた。彼の腕は大きくて温かく、気持よかった。腕の中では、身動きできない方がかえって都合がよく、安らかだった。余計なことを考えず、彼にされるまま任せておけばよかったからだ。 「君とこんなに長い時間一緒にいるのは、初めてだね」  彼が言った。それは、わたしに課せられた作業の困難さとは不釣《ふつ》り合いの、甘い言葉だった。 「夜は明けたのかしら」  目を閉じたまま、わたしは言った。 「ああ。もう朝だよ」 「そう……」 「君は一晩中、僕のために働いたんだ」 「二人で朝を迎えたのね」 「今日もいい天気になるよ。朝もやが出ているからね」  二人はまるでベッドにいるような会話を交した。でもわたしたちは、本物のベッドになど入ったことはないのだった。  目をつぶっていても、朝日が射《さ》し込んでくるのが分った。目を覚ましたどちらかの婦人の足音と、水を使う音が聞こえてきた。 「もうそろそろ、朝一番の依頼人が来るころかしら」 「いいや、大丈夫。それまでにはまだ間があるよ」 「今日は、どんな依頼人がどんな品物を持ってやって来るのかしら」  彼の白衣に顔を埋めて、わたしは言った。いつもの薬品の匂いがした。 「それは誰にも分らない」 「忙しくならないといいわね」 「どうして?」 「だって、わたしたち一睡もしてないんだもの」 「そうだね」  彼は痺れて堅くなったわたしの左手を握った。 「ねえ、いつか女の子が、火傷《やけど》の標本を頼みに来たでしょ? あれはどこにあるの?」  彼の中にいると、彼の顔が見えないので、わたしは普段よりお喋《しやべ》りになった。 「なぜそんなことを聞くの」 「わたしがここで初めて見せてもらった、きのこの標本を頼んだ人でもあるし、それに、彼女の頬がとっても印象的だったから」 「あれは、地下の標本技術室にあるよ」 「どうして保管室に移さないの?」 「理由なんてないさ。ここの標本はすべて、僕にゆだねられているんだ。誰も口をはさめない。もちろん君もだ」 「口をはさむつもりなんてないわ。ただ、彼女の頬の標本を見たいと思ったの。それだけよ」  わたしは言った。彼は何も答えず、わたしの左手をもてあそんだ。吐息がまつげにかかった。 「わたしを標本技術室へ連れて行って」  まだ彼は黙っていた。言葉を探しているようでもあったし、全然別のことを考えているようでもあった。 「あそこには、僕しか入れないんだ」  ぽつりと、彼は言った。 「でも、火傷の少女は入ったわ」 「それは、標本のためだからだ。ここでは、標本がすべてに優先されるんだ」 「じゃあわたしも、自分と切り離せない何かを標本に頼んだら、あなたと一緒に地下へおりられるかしら」 「ああ」 「わたしも、あなたにゆだねられる標本の一つになれるかしら」  彼は答える代わりに、わたしの左手の薬指を持ち上げた。わたしは目を開けた。身体から薬指だけが、ゆっくり引き離されてゆくような感じだった。見慣れているはずのその薬指が、受付室の朝日の中では、不可思議な形に見えた。彼はその先を唇《くちびる》の間に含んだ。  指先から彼の唇の軟らかさが伝わってきたのは、何秒かたってからだった。わたしは、されるままにしていた。  彼が唇を離した時、薬指は濡《ぬ》れていた。そしてその先は、彼が食いちぎったかのように、欠けていた。    6  すぐに冬がやってきた。寒さのためか、309号室婦人はあまりピアノを弾かなくなり、223号室婦人はわたしにお手製のショールをプレゼントしてくれた。花模様が入った、モヘアのショールだった。  一段と冷え込んだ朝、出勤したばかりのわたしに223号室婦人が、 「まだ仕事までには時間があるでしょ? ちょっと部屋に寄っていきませんか」  と声を掛けた。   223号室に入るのは初めてだったが、309号室よりは、ピアノがないぶんだけ広々とし、また整頓《せいとん》もされていた。ただ、ありとあらゆる場所が手芸品で飾られていた。ノブには毛糸のカバー、こたつ掛けにはパッチワーク、壁には刺繍《ししゆう》の風景画、タンスの上にはネコのぬいぐるみ、という具合だった。 「これね、もしよかったら使って。下の管理人室は、すきま風が入って寒いでしょ」   223号室婦人はそう言って、ショールを出してきた。わたしはありがたく頂戴《ちようだい》した。それから彼女は、朝食の残りだという野菜スープを温めてくれた。 「ここで働き始めて、どれくらいになる?」  彼女は聞いた。 「一年と、四か月です」  スプーンの手を止めて、わたしは答えた。 「そう。じゃあ長い方ね」 「そうですか」 「ええ。ここが標本室になってから随分たつけど、ほとんどの子が一年足らずで辞めちゃったわよ。まあ、辞めるっていう言い方が正しいかどうか、疑問だけど」  彼女は首を心持ち右に傾けた。 「どういうことですか」 「突然に、ぷっつり来なくなるの。空気に溶けたみたいに、いなくなっちゃうのよ。何のあいさつもなしにね。もちろん、ちゃんとした理由で辞めた子もいたわ。結婚するとか、田舎に帰るとか、仕事が退屈だとか、まあ、いろいろね」  彼女の声はしわがれていたけれど、まだ交換手時代の張りを残していた。空気に溶けたみたいに……という言葉を胸の中で繰り返しながら、わたしは火傷の少女のことを思い浮かべた。残像の中でも彼女の傷跡は、やはり美しいほどに淡く繊細だった。わたしはスプーンの先で、人参《にんじん》の切れ端をつつき、スープの底に沈めた。 「わたしの前に事務をやっていたのは、どんな人でした?」 「あなたと同じくらいの若い娘さんよ。その子のことはよく憶《おぼ》えているわ。消えちゃう前の日の夜、偶然見かけたから。刺繍糸を買いに手芸店へ出掛けようとして、廊下で会ったの。向こうは気づかなかったみたい。夕暮れ時で薄暗かったからね。うつむき加減で、でも深刻な感じじゃなく、なんて言うか、ひそやかな感じだった。その時の彼女の靴音《くつおと》が、とっても印象的だったの。昔、電話の交換手だったから、音には敏感なのよ。これは簡単に聞き流すことのできない、何かの意味合いを含んだ音だと、直感したの。大きな音っていう意味じゃないのよ。むしろつぶやくような、ささやくような音。他には何の物音もしないの。ただその靴音だけが、コツ、コツ、コツ、って規則正しく、真っすぐに響いてた。人の靴音にこんなに引き付けられたことはなかったわね」  彼女はこたつ掛けのパッチワークの縫い目を撫《な》でていた。 「その次の日よ、消えちゃったのは」 「その人がどんな靴をはいてたか、憶えていらっしゃいますか?」  わたしはスープを飲むのを忘れ、スプーンを握ったまま尋ねた。 「それは憶えてないわ。暗かったから見えなかったし、耳にばっかり神経がいってたから」 「そうですか……」  わたしはスープ皿の中に視線を落とした。 「彼女は、どこへ向かって歩いていたのでしょう」 「地下室よ」   223号室婦人は、さらりとそう言った。 「それにしても、あの弟子丸っていう人も正体不明だわね。地下に閉じこもって標本ばっかり作ってると、ああなってしまうのかしら。でもあなたは、急に消えたりしないでよね。またいつでも遊びに来て。裁縫、教えてあげるから」  彼女は無邪気に微笑《ほほえ》んだ。 「はい。素敵なショール、どうもありがとうございました」  チ・カ・シ・ツ・ヨという彼女の声と、火傷の頬と、廊下の靴音が、三つ一緒になってわたしの中で渦巻《うずま》いていた。  木枯らしが吹いて雪が舞うようになると、依頼人の数はまた減ってきた。冬になると、封じ込めたい過去も凍りついて、わざわざ標本にする必要もなくなるのかもしれない。  そんなある日、突然に309号室婦人が亡《な》くなった。お昼過ぎ、みかんを持って309号室を訪ねた223号室婦人が、ベッドの中で息絶えている彼女を見つけたのだった。223号室婦人の悲鳴を聞いてわたしと弟子丸氏が駆け付けた時、床の上にはみかんがいくつも転がっていた。   309号室婦人は仰向けで、身体をのばし、肩まで毛布を掛けていた。苦しんだ様子はなく、目を閉じていた。眠りの途中で、不意に彼女の回りだけ時間が止まってしまったような、すっきりした最期《さいご》だった。枕元《まくらもと》には、たぶん昨夜飲んだのだろう何かの粉薬と、わずかに水の残ったコップが置かれていた。ピアノの蓋が、開いたままになっていた。  わたしは床に坐り込んで震えている223号室婦人を抱き起こし、彼女が腕に提げている籐《とう》の籠《かご》の中に、みかんを集めた。弟子丸氏は毛布の端をきれいに直し、ピアノの蓋を閉めた。  お葬式は、女子専用アパート時代、遊戯室として使われていた部屋の卓球台を運び出し、そこで行なわれた。彼女には一人も身寄りがなく、見送ったのは223号室婦人と弟子丸氏とわたしの三人だけで、ひっそりとしたお葬式になった。たくさんの曲を奏《かな》でた彼女の指は胸の上で組まれ、真っ白い髪の毛は花の中に埋もれていた。  彼女の遺品をどうしたらいいかについては、みんな頭を悩ませた。金銭的に価値のあるものは何もないのだけれど、この狭い部屋によくこれだけの物が納まっていると感心するくらい、実にさまざまな小物があふれていたからだ。  結局わたしたちは、協力し合って遺品を整理することにした。まず活用できそうなものは三人で分け、——と言っても弟子丸氏とわたしが使えそうなものはあまりなく、衣料品や化粧品などほとんどは223号室婦人が譲り受けたのだが——ピアノは玄関ロビーに据《す》え付け、その他の物は処分することにした。ただ生前、彼女が特別大切にしていたと思われる品物、十個ばかりについては、——写真やメトロノームやピアノカバーなど——標本にして残すことにした。そんな大切な選別を、わたしたちだけでして大丈夫なのかが心配だったが、223号室婦人は「せっかくここは標本室なんだから、何かを標本にしてあげましょうよ」と賛成した。弟子丸氏も反対しなかった。こうして、依頼人のない標本が作られることになった。  他のいろいろな手続きはスムーズに片付いた。309号室は空になり、近い将来、標本保管室として生まれ変わるまで、鍵《かぎ》を閉ざされた。  たった一人いなくなっただけで、しかも彼女はピアノを弾くだけのおとなしい老人だったのに、標本室はその静けさをますます深めていった。223号室婦人は相変わらず手芸ばかりしている様子で、ほとんど物音を立てず、地下の標本技術室の気配は、重い扉《とびら》に邪魔されて何も伝わってこなかった。一人受付室で依頼人を待っていると、静けさの渦の一点に吸い込まれそうになって、はっとすることがあった。  その日は朝から、玄関のドアをノックする人もなく、電話のベルも一回も鳴らず、一段ともの淋《さび》しい一日だった。最近、依頼人の数が減って、標本にすべき品物は一つも残っていないはずなのに、弟子丸氏はずっと標本技術室にこもっていた。わたしはタイプに油を差し、鉛筆を削り、名刺と手紙を整理し、ガラスコップをクレンザーで磨《みが》き、できるかぎりの方法で時間をつぶしたあとは、ただストーブの音を聞きながらぼんやりしているしかなかった。  午後四時を過ぎ、いい加減うんざりして、わたしは散歩に出た。本当はそういうことは好ましくないのだけれど、こんな寒い曇り空の夕方に、依頼人がやって来るとはとても思えなかったし、どうしても外の空気が吸いたくなったのだ。  外は風が強かった。大通りは渋滞し、車のヘッドライトがぽつぽつと点《つ》き始めていた。枯葉が歩道で舞っていた。みんなうつむき、早足で歩いていた。  わたしの靴《くつ》は、以前文鳥のおじいさんが言ったとおり、今ではもうほとんど足と溶け合っていて、歩道を叩《たた》く音はかかとの骨に深く響いてきた。家に帰り着いて玄関で靴を脱ぐ時は、いくらか勇気がいった。皮膚を剥《は》ぎ取るような痛みが走る気がして、靴に手を掛けたまま、いつもしばらくためらってしまうのだった。  灰色の雲が、西の空へ流れていた。時々、一段と冷たい風が舞い上がり、髪とスカートを乱した。わたしは首に巻いたモヘアのショールを、きつく締め直した。  十五分ほど歩くと三丁目の交差点に出た。オフィスビルと交番と書店に囲まれた、人通りの多い交差点だった。わたしはそこに架かっている歩道橋の下を覗《のぞ》いた。 「こんにちは」  文鳥のおじいさんは、あの時と同じ作業服姿で煙草《たばこ》を吸っていた。 「こりゃあ、驚いた。標本室のお嬢さんじゃないか」  おじいさんはあわてて足元の空缶《あきかん》に煙草を投げ込んだ。 「特製のクリームで磨いてくれるっていう約束、本気にして来ちゃいました」 「そうかい、わざわざ来てくれたのかい。さあ、さあ、ここに坐《すわ》りなよ」  古いパイプの椅子《いす》にわたしは腰掛けた。 「あれ以来、文鳥の標本はどうしてる?」  仕事を始める用意をしながら、おじいさんは言った。 「ええ、303号室に丁重に保存されていますよ。骨というのは、標本には適した素材のようです。保存液の中では、骨の白さや滑らかさが、一層|際立《きわだ》って見えますからね。いつでも自由に、ご対面にいらして下さい」 「ああ、ありがとうよ」  自分から切り出しておきながら、あまり標本のことは気にしていない様子で、それよりも靴磨きの方に神経を取られているようだった。 「おー、やっぱり思ったとおりだ」  台の上にのったわたしの足を見て、おじいさんはうなった。 「これは並みの靴じゃない。前よりも一段と侵食が進んでいる」 「本当ですか?」 「間違いない。お嬢さんの足は、もうほとんど靴に飲み込まれる寸前だよ。四十二年前にここで出会った兵隊さんの靴と、確かに同じだ。またこんな靴に巡り合えるなんて、靴磨きとしては幸運なことだ。とにかく、磨かせてもらうよ」  おじいさんは仕事にとりかかった。  彼の両|脇《わき》には絵の具箱のような木製の箱があって、その中に、かなづちや、釘抜《くぎぬ》きや、やすりや、いろいろな色のクリームの缶や、刷毛《はけ》や、その他こまごまとした道具がコンパクトに納まっていた。どれも十分に使い込まれていた。  仕事道具の他にはおもちゃのように小さなラジオが置かれていた。車の音で時々かき消されたが、シャンソンが流れていた。  歩道橋の下はいくらか風がさえぎられていたが、それでもコンクリートから伝わってくる冷気で寒かった。誰かが階段を昇り降りするたびに、頭の上で音がした。サドルの取れた自転車が、隅《すみ》に転がっていた。  おじいさんはまず刷毛で埃《ほこり》を払うと、腰にぶら下っていた布に透明なクリームをつけて磨き始めた。染みだらけの指は、無駄《むだ》なくきびきびと動き、決してわたしの靴を乱暴に扱わなかった。つま先の曲線をなぞったり、リボンを持ち上げたりするささいな仕草にさえ、心がこもっていた。おじいさんの手の感触が、靴を通り抜けてそのまま足に伝わってくるようだった。 「それが、特製のクリームなんですか?」  わたしは聞いた。 「いいや。これは汚れ落としのための下拭《したぶ》きさ。それにしても、磨き心地が最高だね。こっちが誠意を見せたら、それにちゃんと答えてくれる靴だ」 「靴にも、誠意なんてものがあるんですか」 「もちろんさ。誠意だって悪意だってある。お嬢さんは標本を作ってるんだから、分るだろ。そういう、物との交流ってやつがさ」 「ええ」  わたしはうなずいた。その間もおじいさんは、ひとときも手を休めなかった。どんな小さな汚れでも見落とさないように目を凝らし、その柔らかそうな布で靴を撫で回した。時々、クリームをつけ足したり、布をたたみ直したりした。 「しかしお嬢さん、このまま放っておくつもりかい?」  声の調子を変えておじいさんが言った。 「どういうことですか?」 「この靴、脱ぐんだったら今のうちだよ」  おじいさんは顎《あご》で靴を差した。ラジオのシャンソンが、風と一緒に震えていた。 「脱いだ方がいいでしょうか」 「それは俺《おれ》がとやかく言うべきことじゃないけど、ただ、手遅れにならないうちに、自分できちんとけりをつけといた方がいいっていうことさ」 「そうですね……」  わたしは口ごもり、すっかり汚れの落ちた自分の足を見つめた。 「さあ、これが特製のクリームだ。雨や埃や傷の防止にもなる。黒い宝石みたいに光りだすぞ」  おじいさんは道具箱の隅から、銀色の平たい缶を取り出し、へらで器用に蓋《ふた》を開けた。缶の銀色は排気ガスとさびで汚れていたが、中の黒いクリームは、濡《ぬ》れたように艶《つや》があった。彼はそれを慎重に、まんべんなく塗り付けていった。 「この靴は、誰かからのプレゼントかい?」 「ええ、そうです。でも、どうして分るんですか」 「今まで、数えきれないくらいの靴を磨いてきたんだ。それくらい分るさ。で、その彼氏に惚《ほ》れてるのかい?」  わたしは返事に困り、うつむいてショールの端をいじった。特製クリームは靴の隅々にまでゆきわたり、革の中に染み込んでいった。身体は冷えきっていたが、クリームと彼の掌《てのひら》のおかげで、足だけは温かかった。 「さあ、どうかしら。わたし、今まで一度も恋人なんて呼べる人と付き合ったことがないから、よく分らないんです。ただ彼とは、どうしても離れられない、そういう気持と情況だけは確かにあるんです。そばにいたいなんて、なまやさしいことじゃなく、もっと根本的で、徹底的な意味において、彼に絡《から》め取られているんです」 「へえ。難しいことは分らないが、そりゃあ、この靴のせいだな。靴の侵食と彼氏の侵食は、つながってるよ。とにかく俺に言えるのは、今すぐこの靴を脱がなきゃ、ずっとこれからは逃げられない。絶対にこの靴は、お嬢さんの足を自由にしないっていうことだ」  おじいさんが手を動かせば動かすほど、靴は光りはじめた。わたしの足は、彼の指の動きを全部感じ取ることができた。街には夕暮れが訪れ、街灯が点《とも》っていた。救急車が一台、交差点を通り過ぎていった。いつの間にかラジオの音楽は、ピアノコンチェルトに変わっていた。 「おせっかいな口出しかもしれないが、この靴を標本にするっていうのはどうだい?」  おじいさんが言った。 「これは俺の文鳥の骨なんかよりずっと標本にする価値があるし、標本にするってことはつまり、いつまでも自分の中に閉じ込めるってことだろ? 標本室で、俺にそう説明してくれたよな」  わたしはうなずいた。 「そうすりゃあ、お嬢さんの足は自由になれる。靴も自分のものにすることができる」  短く刈り込んだ白髪《しらが》の頭が、わたしの膝《ひざ》のあたりで揺れていた。わたしたちはしばらく黙って、布が靴をこするキュルキュルという音だけを聞いていた。ごく当たり前の靴をはいた人たちが、何人も歩道橋のそばを通り過ぎていったが、わたしたちに気をとめる人は誰もいなかった。 「でも、わたし、もうこの靴を脱ぐつもりはないんです」  長い沈黙のあと、わたしはつぶやいた。 「自由になんてなりたくないんです。この靴をはいたまま、標本室で、彼に封じ込められていたいんです」 「そうかい。そういうつもりなのかい。じゃあこれ以上、俺はとやかく言わないよ」  おじいさんの声は優しかった。 「さあ、できた。これで完成だ」  最後におじいさんはリボンを結び直し、ごつごつした指でいたわるように靴を包んだ。道具箱もコンクリートも作業服も、何もかもがくすんでいる薄暗い歩道橋の下で、わたしの足だけが誇り高く光っていた。 「こんなに心を込めて磨いていただいて、ありがとうございました」 「なんの、なんの。ああ、代金ならいいんだよ。俺も、こういう靴を磨かせてもらって、光栄だから」  ポケットの財布を取ろうとしたわたしを、おじいさんは押しとどめた。 「いろいろと、ありがとうございました」 「本当に、標本室へ戻ってしまうのかい?」 「ええ」 「そうかい。じゃあ、もう会えないな。元気でな」 「おじいさんも」 「ああ」 「さようなら」  わたしは何度も振り返りながら、手を振っておじいさんと別れた。いつの間にか人の波に邪魔されて、歩道橋は見えなくなった。おじいさんの手の温かみだけが、いつまでも足に残っていた。  標本室に帰り着くと、もう五時を過ぎていた。弟子丸氏が地下から上がってきた様子はなく、受付室は真っ暗で、すっかり冷えきっていた。わたしは電気とストーブのスイッチを入れ、ショールを脱いだ。筆記用具も記録簿も和文タイプも、出掛ける前と同じ場所にあった。念のために机の引き出しを開けてみたが、新しい品物は何一つ持ち込まれていなかった。  わたしは記録簿を開き、新しいページに必要事項を記入していった。日付、氏名、生年月日、住所、電話番号、職業、そして標本の種類。あっけないくらい簡単に、登録はすんでしまった。ほとんどすべての依頼人に施さなければならない、標本の意義や形態やシステムについての説明が、わたしには不要だったからだ。そのうえ、持ち込んだ品物にまつわる思い出話をする必要もなかった。わたしはもう、標本室のことなら何でも知っているのだった。  それからわたしは和文タイプの前に坐り、試験管用のシールを作った。試験管がいったいどれくらいの大きさになるのか、見当もつかなかったので、仕方なく、一番よく使う大きさのシールにした。  活字は、ついこの間ばらばらに散らばっていたのが嘘《うそ》のように、整然と並んでいた。レバーを握ると、活字の一個一個が升目の中で揺れた。  まず、登録番号。26—F30999。そして、標本名。薬指。  わたしはシールを持ち、長い廊下を標本技術室の扉《とびら》に向かって歩いた。靴音が天井に響いた。途中で一度立ち止まり、左手の薬指を電灯にかざしてみた。それはやはり、桜貝の断面のような形に欠けていた。  試験管のガラスに映るこの指が、もっと鮮やかで美しくありますようにと、わたしは祈った。  保存液の中はたぶん、なま温かく、静かなのだろう。サイダーのように冷たくもないし、泡《あわ》の弾《はじ》ける音がこもったりすることもない。液は爪《つめ》の先から指紋の溝《みぞ》まで、すっぽりと包んでくれるし、口のコルク栓《せん》は、外の埃や雑音を防いでくれる。そして何より、標本技術室の扉は、分厚くて重い。だから安心して、身をまかせておけばいい。  弟子丸氏はわたしの標本を大事にしてくれるだろうか。時々は試験管を手に取り、漂う薬指を眺《なが》めてほしいと思う。わたしは彼の視線を一杯に浴びるのだ。保存液の中から見える彼の瞳《ひとみ》は、一層澄んでいるに違いない。  わたしは薬指をそっとしまい込むように掌を握り、標本技術室の扉をノックした。  六角形の小部屋    1  どうして自分が彼女の存在に気づいてしまったのか、今思い返してみても不思議で仕方ない。あの人は更衣室のソファーに腰掛けていた。特別目立つ格好をしていたわけでも、大声でお喋《しやべ》りしてみんなをうんざりさせていたわけでも、知っている誰かに似ているというわけでもなかった。ただひっそりとうつむいていただけだ。  いつものようにわたしは手早く着替えをすませ、口紅を塗り、髪をとかしてから、黙ってソファーのそばを通り抜けようとしていた。そうすることを邪魔するものは何もないはずだった。なのにわたしは、彼女の前で立ち止まった。  何がわたしを引き止めたのだろう。それをたまらなく知りたいと願う瞬間が発作のように訪れるのだけれど、いつもかなわない。  その日は土曜日だった。午前中のトレーニングを終えた人と、午後からやって来た人が重なって、更衣室は混んでいた。ざわめきと湯気とドライヤーの音が満ちていた。わたしは濡《ぬ》れた水着を小さく丸め、バスタオルでくるんでバッグに押し込んだ。このあとボーイフレンドと待ち合わせて食事をする約束になっていたので、とても焦《あせ》っていた。 「ごめんなさい、ミドリさん。いつもお待たせしてしまって。もうすぐ終わりますからね。あと少しなんです」  鏡の前で髪を乾かしている女性が、しきりに誰かに声を掛けていた。 「どうして私はいつもこんなにのろいのかしら。ミドリさんには迷惑かけてばかり。待ちくたびれたでしょう。さあ、髪はこれで大丈夫。あとは化粧だけ。急いでやりますからね。本当にごめんなさい」  わたしはコートをはおり、ボタンをはめながら、見るともなく彼女に目をやった。大柄《おおがら》で肉付きのいい老婦人だった。人を待たせているわりには、少しも急いでいる様子はなかった。きつくパーマのかかった、これ以上まとまりようがないと思われる髪を、いつまでもしつこくブラシで引っ張り、やっとドライヤーのスイッチを切ったかと思うと、今度は化粧ポーチからいくつもの小瓶《こびん》を取り出して、それらを並べだした。  いかなる場合でも自分のペースを崩さない、他人の迷惑に鈍感な、こういうタイプの人はどこにでもいる。口ではごめんなさいと繰り返していながら、心の中では何とも思っていないのだ。  やはり、老婦人の化粧の仕方は悠々《ゆうゆう》としたものだった。鏡に映った自分の顔をしばらく点検したあと、ゆっくりと瓶の蓋《ふた》を外し、クリームを隅々《すみずみ》に塗り付けてマッサージし始めた。その間もずっと休まず謝り続けていた。  約束の時間が迫っていた。わたしはバッグを肩に掛け、ロッカーの鍵《かぎ》を閉めた。その時ふと、部屋の片隅にあるソファーに視線がいった。そこにミドリさんは坐《すわ》っていた。  もちろん名札がついていたわけではない。なのにわたしは彼女がその人だと確信した。連れに待たされ、無駄《むだ》な時間をそこで過ごしている、気の毒なミドリさんだと。  しかしミドリさんは、さほど迷惑そうな様子はしていなかった。サウナに入った名残りか頬《ほお》がうっすらと赤く、素顔だった。おしろいさえはたいていなかった。後ろで一つに束ねた髪の毛はまだ湿っていた。手首のところが少しゆるみかけた縄編《なわあ》み模様のセーターと、地味なスラックスを身につけていた。老婦人より十くらい年下に見えたが、決して若々しいという感じではなかった。身体《からだ》全体から漂っている圧倒的な平凡さが、年齢や趣味や人柄や、そういう初対面の人を判断するための要素を全部|覆《おお》い隠していた。  迷惑そうでないかわりに、彼女は愛想がよくもなかった。老婦人の呼び掛けが耳に届いているのかいないのか、不愉快な表情も見せず、だからといって、どうぞ私のことは気になさらずごゆっくり、という意思表示のための笑顔もなかった。ただぼんやりと、膝《ひざ》の上に置いた自分の両手や、ソファーのしみを眺《なが》めているだけだった。スポーツクラブの更衣室からはあまりにもかけ離れた問題——例えば昨夜読んだ推理小説のアリバイトリックの矛盾点についてとか、ヒトの遺伝子の全塩基配列を解読する方法についてとか——を思案しているようでもあったし、また、何にも考えていないようでもあった。  その間もずっと老婦人は念入りに化粧をしていた。彼女たちはどういう関係なのだろう。親子ほどは歳《とし》が離れていないし、友だちにしてはどこかよそよそしい。わたしはロッカーの鍵をポケットにしまい、鏡の並んだ洗面台の後ろを通ってソファーの横に立った。左手にはドアがあった。ほとんどわたしには時間がなかった。今すぐここを出て駅まで走っても、約束に間に合うかどうかぎりぎりのところだった。 「こちらのクラブにはもう長いんですか?」  なのに気づいた時、わたしはミドリさんの隣に坐り、こう話し掛けていた。  突然見知らぬ人間がそばに寄ってきたというのに、彼女は戸惑ってもいなかったし緊張もしていなかった。 「いいえ。会員になったのは、ええっと……ちょうど四週間くらい前です」  彼女は丁寧に答えてくれた。 「そうですか。じゃあ、ちょっぴり先輩ですね。わたしはまだ十日なんです」 「先輩だなんて大げさですよ。それほど熱心な会員じゃありませんから」  しばらく沈黙が続いた。わたしはバッグをテーブルの下に押し込み、足を組み替えて深く坐り直した。自分で自分に驚いていた。なぜこんなところでもたもたしているのだ。何の意味もないじゃないか。ボーイフレンドは時間に几帳面《きちようめん》な人だ。たいてい約束の十分前にはやって来る。それに今、ただの友だちから恋人に発展する微妙な時なのだ。おばさんとの世間話より、彼との食事の方が何十倍も大切に決まっている。しきりにわたしは胸の中で、自分にささやきかけた。けれど身体は正反対に、ソファーから全く動こうとしなかった。  近くで観察すると、ミドリさんの飾り気のなさは余計に際立《きわだ》って見えた。アクセサリーはつけておらず、耳たぶも首筋も指も淋《さび》しげなほどすっきりとし、顔の作りには何一つ目をひく特徴が見当らなかった。眉毛《まゆげ》や頬骨や目蓋《まぶた》や唇《くちびる》や肩のラインや腰付きや足首や、とにかく身体中のあらゆる部分が、幼稚園児がクレパスでなぞったような、素朴《そぼく》な形をしていた。 「お友だちですか?」  ようやくファンデーションを塗り終え、アイシャドウにとりかかろうとしている老婦人に、ちらりと視線をやりながらわたしは尋ねた。 「さほど親しいというわけじゃありません。ついこの間、知り合ったばかりです。家の方向が同じなので、いつも一緒に帰っているんです」  やや猫背《ねこぜ》にうつむいたままミドリさんは答えた。退屈な時間をつぶすのにちょうどいい話相手ができたと喜んでいるのか、一人の時間を邪魔されてうんざりしているのか、よく分らなかったが、わたしは構わず続けた。 「お家《うち》はどちらですか?」 「産業道路を埋め立て地の方に進んだ、運動公園の近くです」 「まあ。じゃあ、わたしのマンションとも近いわ。公園の手前の整形外科病院を西に入ったところにあるマンションなんです。ご存じですか?」 「引っ越ししてきたばかりなものですから……。それに、ひどい方向音痴なんです」  ミドリさんは視線を上げ、微笑《ほほえ》んだ。目尻《めじり》が震えるような、ひそやかな微笑みだった。頬がつやつや光っていた。  こうして自分が見ず知らずの人と話しているのが不思議だった。このスポーツクラブに入会して、わたしはまだ誰とも口をきいたことがなかった。一人で黙々と泳ぎ、シャワーを浴びたら、ロビーでお茶も飲まずに帰っていた。ここで知り合いを作るつもりなどなかった。だいいちわたしは、誰とでも気軽に仲良くなれるようなタイプの人間ではないはずだった。他人に対してはいつも慎み深く、臆病《おくびよう》だった。  とにかく、ミドリさんを発見したことで、わたしの意識は妙な具合にねじれてしまったのだ。 「泳ぐのが、お好きなんですか?」  次から次と質問が口からこぼれてきた。本当にその答えを知りたいと思っているのではなく、ただ少しでも長く彼女のそばにいて、意識を狂わせているものの正体を感じ取ろうとしているだけなのかもしれなかった。 「いいえ。私など泳いでいるうちには入りません。もがいているだけです。あの方に無理矢理誘われまして、お供しているような次第です」 「そうですか。一人ぼっちで何か新しいことを始めるのは、億劫《おつくう》ですものね」  その時また、老婦人が声を張り上げた。 「ミドリさん、ごめんなさいね。もう何分お待たせしているのかしら。だってあなた、支度が早いんですもの。どうやったらそうてきぱきできるのか、教えていただきたいくらいよ。あとちょっとですからね。本当にあとちょっとなの」  回りのドライヤーの音に負けまいとするものだから、彼女の声は更衣室中に響き渡った。ミドリさんは何度かまばたきしただけで、相変わらず特別な応答はしなかった。無視するというほど冷淡ではないが、自分を取り繕ってもいなかった。  ミドリさんの水着姿はどんなふうなのだろう。わたしは想像してみた。胸はたっぷりとしているけれど少し垂れていて、腰からおなかにかけてはゴムのチューブを三重巻きしたみたいに肉が余っている。肌《はだ》は頬と同じく、赤みがかってすべすべしている。水に濡れるとその滑らかさがますます強調される。ただ足の甲には坐りだこがあって、かかとはひび割れている。水着はたぶん、これ以上地味なのはないというくらいのものだろう。水着工場の縫製室で、基本形としてマネキンが着ているようなタイプだ。プールサイドの片隅を肩をすぼめて歩き、1コースの脇《わき》から水音を立てないようにそろりそろりと身体を沈める。その間に連れの老婦人は、振り向きもしないで好き勝手に泳ぎ始める。ミドリさんは一、二度顔を湿らせてから、キャップの縁を引っ張り、丸めた髪の毛がうまくおさまっているかどうか確かめる。……  どうかしている。おばさんの水着姿なんて、想像して楽しむ種類のものじゃない。わたしは苦笑いをした。これではまるで、恋をした少女みたいではないか。彼のシャツの下に隠れている胸はどれくらい硬く広いのだろう。そこにもたれたら、どんな感触がするのだろう。その時、彼の指はどんなふうに動き、わたしのどこに触れるのだろう。などと思い巡らせて、息苦しくなっている少女だ。 「また、お目にかかれるかしら」  わたしはつぶやいた。 「もちろんですわ」  ソファーの継目のほつれた糸をつまみながら、ミドリさんは答えた。 「泳ぎにいらっしゃる曜日は決まっているんですか」 「あの方の都合に合わせていますので、いつとは決まっておりません。コーラスの練習に油絵教室、痩身《そうしん》サロンに歯医者通いと、とてもお忙しいんです、あの方は」 「お一人でもいらっしゃればよろしいのに」 「いいえ。私はただのお供ですから」  その時ようやく、支度の整った老婦人がやって来た。 「まあ、まあ、ミドリさん。ごめんなさい。眉毛がなかなか思うように描《か》けなくて苦労してたの。さあ、まいりましょう」  明らかに黒すぎる眉毛をひくりと動かして彼女はそう言うと、わたしのことなど気にもとめず、大股《おおまた》でドアから出ていった。ミドリさんはあわててバッグをつかみ、ソファーの足につまずきそうになりながらあとに続いた。あっという間に二人はいなくなった。  しばらくわたしはそのまま動かなかった。ミドリさんが居た場所を見つめていた。そこは何の変哲もない、安物のソファーだった。しかし確かに、ミドリさんが居たという空気のこわばりは残っていた。    2  わたしがスポーツクラブのプールに通うようになったのは、背中の痛みがきっかけだった。ある朝目がさめたら、ひどく背骨が痛かった。こんな状態でよく眠っていられたものだと感心するほどだった。前の日までは何のきざしもなかった。突然痛みの塊が空から降ってきて、背中に突き刺さったような感じだった。 「骨に異常はありませんな」  あっさりと整形外科医は言った。 「何かの拍子に無理な力が加わって、脊椎《せきつい》を支えている筋肉が傷《いた》んだんでしょう」  医者の正面には、わたしの背骨の写真が貼《は》り付けられていた。 「お仕事はどういう種類です?」 「医科大学の事務で、ほとんど坐りっぱなしです。重たい名簿や教材や答案の束を運んだりもします」 「それはよくない。長く同じ姿勢を続けたり、急に不自然な力をかけたりするのが一番危ないんです。脊椎というのはですね、こういう小さな一個一個の椎体がつながって構成されておりまして、それぞれの間にはクッションとして椎間板がはさまっております。そしてこれらを取り巻いているのが筋肉ですね。人間が二本足で歩き始めた太古から、ここにはずっと過重な負担がかかり続けておるわけです」  医者は机の上にあった模型を手に取って説明し始めた。長くて退屈な話だった。模型は乳白色の石膏《せつこう》でできていて、彼がそれをねじるたび、キシキシと気色の悪い音を立てた。まるでその音が自分の身体の奥から聞こえてくるようで、ますます痛みが激しくなってきた。音から神経をそらすことばかりに気を取られていたせいで、説明の半分はうまく理解できなかった。 「つまりはですね」  ようやく医者は模型を置いた。 「しばらくは暖かくして、安静にするしかありませんな。寝ているのが一番の薬です。それで様子をみて、痛みがやわらいできたら、水泳をされるとよろしい。運動で筋肉を鍛えて柔軟にするんです。いいスポーツクラブを紹介してあげましょうか。うちの病院と契約を結んでいるクラブがあるんですよ。あなたのカルテを見て、適切なプログラムを組んでくれます。それに病院の判があれば、入会金が二割引きになるんです。どうです? お得でしょう」  そう言うと彼はわたしの返事を確かめようともせず、引き出しから入会申込書のようなものを取り出して、勝手に記入していった。そして最後に、四角い病院の判を勢いよく押した。  本当はわたしは水泳などやりたくなかった。泳ぎはあまり得意ではないし、昔持っていた水着はどこへしまったかもう忘れてしまったし、いちいち濡《ぬ》れた髪を乾かさなければならないのは面倒だ。けれど、断る元気もなかったので、黙って申込書をハンドバッグにしまった。  結局、しばらく通院して牽引《けんいん》治療を受けることになった。牽引のためのベッドは奇妙な形をしていた。ヨーロッパ中世の拷問《ごうもん》用の箱か、前衛演劇の大道具か、天然記念物の鳥の卵を温める孵化《ふか》装置のように見えた。  まず最初に、鉤形《かぎがた》の金具がたくさんぶら下ったコルセットを骨盤に巻き付ける。その金具をじゃらじゃら鳴らしながらベッドに横たわると、看護婦さんがやって来て、両脇と足首をベルトで縛る。その時看護婦さんは、一ミリのすきまもないように力一杯締め上げるので、自分がお仕置きを受けている錯覚に陥る。コルセットの金具は、足元にある滑車の金具とつなげられ、滑車に付属したダイヤルで引っ張る力が調節される。わたしは十五キロからスタートし、毎日一キロずつ増やしていって、今は最大目盛の三十二キロだ。  最後に看護婦さんは、頑丈《がんじよう》な鉄の覆いを胴体にかぶせ、赤いスタートボタンを押してから部屋を出てゆく。わたしは一人、箱の中に残される。  背中の下ではずっと、お湯がぐつぐつ煮えるような音がしていて、とても熱い。これで我慢できるかしら、と心配になるくらいだ。いつかもっと温度を下げてもらうよう頼みたいのだけれど、看護婦さんたちはみな忙しく不機嫌《ふきげん》そうなので、まだ言い出せないでいる。いつも最後まで我慢してしまう。  一番緊張するのは滑車が動き始める瞬間だ。そんなことがあるはずもないのに、もしこのまま滑車がどこまでも腰骨《ようこつ》を引っ張り続けたらどうなるのだろう、と想像してしまう。本当に拷問にかけられている気がする。火あぶりと八つ裂きの拷問だ。  滑車はゆっくりと金具を引っ張ってゆく。ベルトが両脇に食い込み、コルセットが腰を圧迫する。手入れが悪いのか、機械はあちこちで軋《きし》んでいる。力はどんどん強まってゆく。わたしはどこか身体の中で自由になるところを探そうとするのだけれど、うまくいかない。鉄の覆《おお》いはすっぽりとわたしを包んでいて、まばたきするのさえ窮屈なのだ。その間もずっとお湯は沸騰《ふつとう》し続けている。  仕方なくわたしは目をつぶる。自分でも背骨が引き伸ばされているのが分る。筋肉の繊維が切れ、靱帯《じんたい》が痙攣《けいれん》し、椎間板がはみ出し、骨髄が流れ出して、とうとう骨が全部ばらばらになってしまう。一個一個の骨は、ちぎれた真珠のネックレスのように、床に散らばってゆく。その乾いた音も、弾《はじ》ける感触も、くっきりと浮かんでくる。しかもそのことが不愉快でない。むしろ恍惚感《こうこつかん》さえ覚える。分解された自分の背骨を手に取って、温もりを確かめたり、匂《にお》いをかいだり、光に透かしてみたりするのもおもしろいと思う。  もう少しだ。滑車があと数センチ動いたら、わたしの身体をつなぎ止めているものすべてが壊れる。あと少しだ。ほんの少しだ。わたしは目蓋に力を込め、その瞬間を待つ。  しかし、これ以上は我慢できないぎりぎりのところで、滑車は反対に回転し始める。金具がゆるみ、軋みが止まる。そんなことを二十分間繰り返す。  鉄の覆いから外へ出る時、自分の身体を眺《なが》め回す。腕も足も腰も背中も、しっかりとつながり合っている。どこもゆるんでいないし、ばらばらにもなっていない。まるでわたしをどこにも逃げられないように閉じ込めているかのようだ。わたしは少し、淋しい気分になる。  あの日、約束の時間には四十五分遅れた。ボーイフレンドは駅前の噴水のベンチで、こごえながら五十五分待っていた。更に悪いことに、予約していたレストランのランチの時間が過ぎてしまい、そこで食事することができなくなった。二人で走ったのだけれど、ドアにはCLOSEDの札が掛かっていた。  彼はそのことでわたしを責めるような人ではなかった。礼儀正しく、辛抱強い人だった。それにわたしたちはまだ、思う存分に感情をぶつけ合えるほど親しくもなかった。 「気にしなくていいんだよ。突発的な事故だったんだから」  彼は慰めるように言った。電車で貧血を起こした女の人を介抱してあげていたから遅刻したのだと、わたしは嘘《うそ》をついていた。 「ごめんなさい」  他に言いようがなかった。 「謝ることなんてないさ。君は人助けをしたんだ。あのレストランで食事をしていたら、食中毒になるところだったのかもしれない。だからこれは、今日はあそこで食べるなっていう、何かのサインだよ。さあ、とにかく、どこかでお昼を食べよう」  彼はどうにかして事態をいい方向へ持っていこうと努力していた。  ところが、行き当たりばったりで入ったレストランは、テーブルが油でべとべとし、ウエイターの態度が悪く、料理は本当に食中毒になってしまいそうなほど不味《まず》かった。肉はパサパサで半分冷めかけ、付け合わせのじゃがいもには芽が残っていた。フォークを口に運ぶたび、だんだんわたしたちは無口になり、最後には扱いに困った料理の残骸《ざんがい》を、皿の上であっちにやったりこっちにやったりすることで時間をつぶした。  それでも彼は、背中の治療のことや、今度の選挙の行方や、新しくオープンした水族館の評判や、街で見かけた映画スターの悪口や、あれこれ目新しい話題を提供し、料理の不味さがお互いの不機嫌さに結びつくのを防ごうとしていた。そんなふうに彼が気を使ってくれているというのに、なぜかわたしは申し訳ないという気持になれなかった。その場をうまくとりなして、彼の努力に報いるだけの優しさを見せてあげようとする気力がわいてこないのだった。そのうえ、また背中が痛み始めていた。  テーブルに飾られた、趣味のあまりよくない造花の花籠《はなかご》に視線を落とし、適当に相づちを打ちながら、わたしはずっとミドリさんのことを考えていた。  それ以来、彼は連絡をくれなくなった。いくら誠実な人とはいえ、さんざん待たされたうえにひどい料理を食べさせられ、やはり気分を害したのだろうか。わたしの下手な嘘を見破って、軽蔑《けいべつ》したのかもしれない。いずれにしても、すべてわたしが悪いのだから仕方ない。  彼のことは好ましく思っていたし、もし恋人にまで発展できれば楽しいだろうと想像もしていたのだけれど、こうして駄目《だめ》になってみると、たいして残念でもない。もっとも、残念がるくらいなら、最初からミドリさんになど気づいていなかっただろう。  二回め、ミドリさんを見かけたのはプールの中だった。わたしは1コースを背泳ぎで泳いでいた。マタニティクラスのレッスンが始まって、お腹《なか》のふくらんだ人たちが次々中央のコースに入ってきた。同じ妊婦でもお腹のふくらみ方には個性があった。大きさが違うのは当然としても、胸からひと続きになって洋梨《ようなし》のように垂れているのや、横方向にふくらんでいるのや、コンパスで描いたようなきれいな球形をしているのや、柔らかそうなのや硬そうなのや、いろいろだった。横目で妊婦たちを観察していたら、その向こう側にミドリさんを見つけた。  彼女の水着姿があまりにも思い描いていたとおりだったので、自然と笑いがこみあげてきた。肉のつき方も肌の色合いも水着の形も、わたしの想像を裏切っていなかった。ただ一つ、スイミングキャップだけがひどく変わっていた。  どこにでも売っているナイロン製の白いキャップだったが、てっぺんのところにピンク色の小さい玉飾りがついている。スキー帽などにはよくそんな飾りがついているが、スイミングキャップにとってそれがふさわしいデザインなのかどうかは疑わしかった。遠くから見てもミドリさんの頭は際立《きわだ》っていたし、あたりに特別な印象をふりまいていた。目を凝らすと、どうも玉飾りは毛糸でできているらしかった。色がしみ出して、キャップの上の方だけが淡いピンクに染まっていた。  正確に言うと、彼女は泳いではいなかった。最初に会った時自分で言っていたように、ただもがいているだけだった。6コースのスタート台の下で、頬《ほお》がふくらむほど大きく息を吸い込み、目玉だけ天井に向けて一瞬間を置くと、その場に坐《すわ》り込むようにして水中へ沈む。滑らかに消えるのではなく、たこか水母《くらげ》か、何か軟体動物に身体を絡《から》め取られるように、もたもたと沈んでゆく。代わりに泡《あわ》が、音を立てて浮かび上がってくる。  姿は見えなくても、彼女が水の中でどんな格好をしているのか見当はついた。顔中を皺《しわ》だらけにして目をつぶり、両手をばたつかせ、爪先《つまさき》でプールの底をつついている。唇《くちびる》の両端からはボコボコと苦しそうに息が漏れている。バランスを無視して手と足がそれぞれ好き勝手に動いているので、もっと深く沈もうとしているのか、浮き上がろうとしているのかよく分らない。  プールは混雑していたが、彼女の回りだけはぽっかりとハサミで切り抜いたみたいに人影がなかった。不格好にもがいているおばさんの奇妙な雰囲気《ふんいき》を察知して、みんな近寄らない方が賢明だと思ったのだろうか。更衣室で一緒だった老婦人を探したけれど、見当らなかった。妊婦さんたちはにぎやかな音楽に合わせて水中エアロビクスを始めた。彼女たちが一斉《いつせい》に動くと、水面がうねった。誰一人としてミドリさんに注意を払っていなかった。広いプールの中で、彼女に視線を送っているのはわたしだけだった。そのことを自分でもはっきり感じることができた。  案外長くミドリさんは潜っていた。溺《おぼ》れているのではないかしらと心配になってきた頃《ころ》、ようやく飛び出してきた。顎《あご》からも胸からもキャップの玉飾りからも、しずくが垂れていた。丸く口を開き、精一杯息を吸い込むと、何度も首を横に振った。一滴でも水が目に入るのは我慢できないというふうに、まだまぶたは閉じたままだった。水から自由になった両手は、宙をつかもうとして頼りなくふらふらしていた。  その時、妊婦さんたちが一段と元気よく腕を回転させ、足を振り上げ始めた。うねりは6コースまで届いた。ミドリさんは前のめりになり、ロープにしがみついた。おそるおそる目を開け、大げさにため息をついた。玉飾りが震えていた。それは、この人がミドリさんであるという、誰にも真似《まね》できない印のように見えた。    3  夜、美知男が来た。お風呂《ふろ》から出たあと、ベッドの上でごろごろしながらラジオを聴いていたら、玄関のチャイムが鳴った。嫌《いや》な予感がしたので、ラジオのボリュームを絞り、息をひそめてしばらく様子を見ることにした。しかしチャイムはためらいがちに一定の間隔をおきつつも、しつこく鳴り続けた。  スコープからのぞくと、美知男が立っていた。茶色いコートのベルトをぎゅっと絞り、マフラーを二重巻きにしていた。 「ごめん。こんな時間、突然に……」  彼は鍵《かぎ》を開けてくれるものと思い込んでいるようだった。 「どうかしたの?」  ドアのすきまに口を近づけ、できるだけ低い声でわたしは尋ねた。 「いや、ちょっと、あの……君に、用事があったんだ」 「用事?」 「ああ。たいしたことじゃないんだけど、気になったものだから」 「わたしたちの間にはもう用事なんて何にも残っていないはずよ」 「うん。そうかもしれない。だから、本当にくだらないことなんだ」 「そのくだらないことのためにわざわざここまでやって来たの?」 「いや。わざわざなんかじゃないよ。仕事の帰りなんだ。ちょっと回り道しただけさ」  的外れであつかましく、なおかつ誠実ぶった彼の言葉に、わたしはだんだんイライラしてきた。この数か月、彼と会うたびに味わってきた感情だった。  わたしたちは勤め先の大学で知り合い、二年あまりつき合ったのち、数か月の混乱を経て別れた。わたしは別れましょうと主張し、彼はどうにか関係を修復しようと努めた。何度も話し合いをし、そのたびにもうこれが最後と結論を導きだしておきながら、いろいろと理屈をつけられてはまた彼と会う羽目になり、そこで取り返しのつかないけんかをしたりした。わたしは怒り、彼は謝り、わたしはうんざりし、彼は嘆く。それの繰り返しだった。  いい加減二人ともそういういさかいに疲れ果て、やっぱりわたしたちはもう駄目なのだとはっきりけりをつけたのが一か月半ほど前だった。結局あの混乱の期間は、彼をますます嫌《きら》いになるためだけに存在したようなものだ。 「帰ってくれない」  わたしは言った。 「そんな重大に考えないでほしいんだ。まさか今さら、よりを戻そうなんていうつもりはないよ」 「迷惑なの」  自分でも寒気がするほど冷淡な言い方だった。 「君を困らせるようなことはしないよ。玄関先ですぐ失礼する。三十秒あればすむ用事なんだ。とにかくここを開けてくれないか」  彼はドアを叩《たた》き始めた。  しばらく考えてから、わたしは鍵を開けた。寒い通路にいる彼を気の毒に思ったからでも、もちろん彼の顔を見たかったからでもなく、三十秒ですむのならこのまま無視し続けるよりはドアを開けた方が、手っ取り早く事が片付くと思ったからだ。 「ごめんよ」  彼はほっとしたように微笑《ほほえ》み、ノブをつかんで中へ入ろうとした。ガチャンと耳障りな音がして、右足の靴《くつ》の先だけがすきまに挟《はさ》まった。チェーンを掛けたままのドアは十センチくらいしか開かなかった。ようやく彼は伸びきった鎖に気づき、微笑みを曇らせ、長いため息をついた。 「もう、十秒は経過したわ」  お風呂から出たばかりのだらしない格好を見られるのが嫌で、わたしはドアの陰に半分隠れていた。 「ああ、そうだね。いそいで用件を説明するよ」  わざとらしくあわてたふうに、彼はコートのポケットから何か小さな袋を取り出した。 「これを返さなきゃと思ったんだ。きのう洗面所を掃除していたら、戸棚《とだな》の奥から出てきた。君の持ち物は全部持って帰ってもらったと思っていたけど、残っていたんだ。ずっと僕の手元に置いておくのもおかしいし、勝手に処分するわけにもいかないし……」  彼はとても大事な品物を扱うようにその袋を両手で包んだ。  それは化粧ポーチだった。確かに彼の部屋に置いていたものだ。ずいぶん昔、化粧品会社の景品でもらった安物で、花柄《はながら》模様は色あせ、ファスナーのところがほつれている。 「中には、使いかけのマニキュアが入っているみたいだよ」  言われなくても分っている。エレガントピンクのマニキュアと、除光液と、ネイルトリートメントクリームと、やすりが入っているのだ。 「こんなもの、捨ててくれればよかったのに……」 「そうはいかないよ。君との間のことで、僕は一つでも手を抜きたくないんだ」  自分の取っている行動がいかに意義深いものであるか示すように、彼は仰々しく化粧ポーチを捧《ささ》げ持ち、こちらへ差し出した。けれどドアのすきまは狭すぎて、ポーチはうまくそこを通り抜けられなかった。彼はあれっ、と短い声をもらし、両手をいろいろな向きに動かした。ポーチの中で、ガチャガチャ音がしていた。どうにかそれは、こちら側へ押し込まれた。  彼はしばらく黙って、わたしの手に移ったみすぼらしい袋を見つめていた。わたしが何か言うのを待っている様子だった。頬と鼻の頭が赤くなっていた。一か月半前と比べて美知男はどこも変わっていなかった。短く刈り上げた髪も、緊張すると繰り返しまばたきする癖も、衿《えり》の大きな時代遅れのコートもそのままだった。  そんなコートは似合わないからよした方がいいと、つき合っている間ずっと思い続けていたのだけれど、結局言い出せないままだった。最初のうちは彼の気分を害したくなくて遠慮していたし、最後の方は彼が何を着ていようがそんなことはどうでもよくなったのだ。そのコートを彼は今も着ている。上から下まで全部ボタンをはめ、ベルトの端をきちんとベルト通しにおさめている。 「もし今度何か見つかったら、捨ててね。ミンクの衿巻きでも、ダイヤの指輪でも構わないから」 「分った」  彼は無理に笑おうとした。不自然にゆがんだ顔が元に戻らないうちに、わたしはドアを閉めた。 「じゃあ」  背中がまた痛み始めた。牽引《けんいん》治療に通っても、プールで泳いでも、少しもよくならない。何の前触れもなく発作的に痛みが背骨に降り注ぎ、ぎざぎざに尖《とが》った舌で神経の束を執拗《しつよう》になめ回すのだ。そうなると発作がおさまるまで、辛抱強く息をひそめているしか他に方法がない。  わたしは背中を丸めてベッドに寝転がった。ボリュームを絞ったままだったラジオのスイッチを切った。それにしても、美知男の前で痛くならなくてよかった。彼に知れたら厄介《やつかい》なことになっていただろう。正当な理由を並べ立てて、いろいろ世話を焼きたがるに違いない。いつでも彼は正当だ。そのうえ、医者なのだ。  わたしは枕元《まくらもと》に化粧ポーチを置いた。眠ろうとしたが無理だった。痛みがひどかったし、やはり彼の突然の来訪で気分がさざめいていた。仕方なく目だけつぶった。  美知男の部屋でマニキュアを塗った頃のことが、自然と思い出されてきた。 「君は掃除も料理も大ざっぱなのに、それだけはいつも丁寧にやるね」  彼は興味深げに横からのぞき込んでいた。 「そうなの。ちょっとでもむらになったり、傷がついたりしたら我慢できないの。気になって気になって、その爪だけがどんどん膨張していくみたいな感じになるのよ」  明るい日曜の午後だった。窓に映る公園の緑がこのうえもなく鮮やかだった。彼の担当する患者さんはみな安定していて、とりあえず死にそうな人はおらず、ポケットベルは朝から一度も鳴っていなかった。わたしたちは好きなだけ一緒にいることができた。  確かにわたしは左手の小指から順番に、時間をかけてマニキュアを塗っていった。少しでも気に入らないと、最初からやり直した。除光液をふくませた綿棒で、はみ出したところは慎重に拭《ふ》き取った。その間ずっと美知男はわたしの指先を見つめていた。 「珍しい症例患者の手術を見学しているみたいに真剣ね」 「爪が赤く変色するなんて、これは奇病の一種だよ」  わたしたちは微笑み合った。十個の爪が全部完成すると、早く乾くように二人で息を吹きかけた。彼の息は温かく、くすぐったかった。  最後に塗った右手の親指にそっと触れてみて、乾いているのを確かめたあと、わたしたちは安心して手を握り合った。マニキュアを塗ったばかりの手を、彼は特別優しく扱ってくれた。  あの時の感触ははっきり覚えているのに、感情はよみがえってこない。わたしは頭を振った。余計、背中が痛んだ。  のろのろと腕をのばし、化粧ポーチのファスナーを開けてみた。錆《さ》びついているのか、滑りが悪かった。エレガントピンクは瓶《びん》の中で、不透明な油と、毒々しい赤色のゲル状物質に分離していた。瓶を傾けると、中身も大儀そうにどろりと動いた。  背中の調子がよくないので、しばらくプールを休んだ。だからミドリさんにも会えなかった。あのあと、美知男は姿を見せなかった。校舎と大学病院をつなぐ渡り廊下でちらっと見かけたが、黙って通り過ぎた。彼もカンファレンスの資料を手に、先輩の医者と熱心に話し込んでいたので、こちらには気づかなかったようだ。  マニキュアは化粧ポーチごと捨てた。腐りかけたトマトソースが底にこびりついている空缶《あきかん》や、割れた醤油《しようゆ》さしや、毛先のつぶれた歯ブラシと一緒に、黒いゴミ袋の中へ押し込んだ。  それから十日くらいして、仕事の帰りにスーパーマーケットに寄ったら、偶然ミドリさんを見かけた。プールで泳いだあとらしく、例の老婦人も一緒だった。  二人はそれぞれに買物|籠《かご》を提げ、陳列棚の間をゆっくり歩いていた。常に老婦人が前で、ミドリさんが後だった。並んで言葉を交わしている様子はなく、無関係な者同士のようにも見えたが、決して二人がばらばらになることはなかった。一定の間隔を保ちながら、従順にミドリさんは彼女に付き従っていた。わたしも人影に隠れながらそっとついていった。  老婦人は所々で立ち止まり、じっくり時間をかけて品物を選んでいた。マヨネーズ一つ買うにしても、全部の種類を手に取り、値段を見比べ、賞味期限を確かめ、もう一度陳列棚を隅《すみ》から隅まで眺《なが》め回してようやく一個選んだかと思うとまた元に戻し、結局一番安くて小さなのを籠に入れるという調子だった。ミドリさんはやはり文句も言わずに待っていた。買物籠を下に置き、マフラーをしめ直したり、値札をいじったりしながらぼんやり立っていた。時々彼女も何か買ったが、よく見もしないで無造作に籠に放り込むだけだった。特別それが欲しいわけでもないけれど、まあついでだから買っておきましょうか、という感じだった。  彼女たちがレジに並んでいる間も、見失わないように注意していた。ペースが狂って自分の買物はほとんどできなかったが、そんなことはどうでもよくなっていた。二人のことが気になって仕方なかった。ミドリさんがどこでどんなふうに老婦人と別れるのか、そのあとどんな場所へ帰ってゆくのか、こっそり見てみたかった。  店を出ると、二人は産業道路を南へ歩きだした。右手に水着の入ったバッグ、左手にスーパーの袋を提げていた。相変わらず言葉は掛け合っていなかった。老婦人はミドリさんなどそこにいないかのようにただ前だけを向いて歩き、ミドリさんはずっとアスファルトに視線を落としたままだった。気まずい雰囲気《ふんいき》ではないが、なごやかでもなかった。淡々として、厳《おごそ》かでさえあった。  人を尾行するのは生まれて初めてなので緊張した。あたりは日が暮れて暗くなっていた。コンビナートへ向かうタンクローリーやキャリアカーやコンテナトラックがひっきりなしに行き交い、にぎやかではあったが、人通りがないので自分の姿をどう隠したらいいのか戸惑った。街路樹のそばで立ち止まったり、バス停の時刻表を眺める振りをして距離を調節した。しかし二人に振り向く気配はなかった。あらかじめ定められた場所へ、吸い寄せられているかのようだった。  それにしても、なぜわたしはこんなことをしているのだろう。スーパーマーケットで見かけた時、まあ今晩は、とあいさつし、そのまま別れて自分の買物を済ませてしまえば、それで終わる話なのに。寒い中をうろついて、また背中が痛くなったらどうするつもりなのだ。たとえ見つかったとしてもどうという相手ではないのに、物陰に隠れたり、自分の靴音にびくびくしたりして、他人から見たら滑稽《こつけい》だろう。自分でもそう思う。  とにかく二人は歩いていった。わたしが治療を受けている整形外科の前を通り、海岸につながる四つ角を過ぎ、右手に大きくカーブした産業道路に沿って、運動公園までやって来た。以前ミドリさんが公園の近くに住んでいると言っていたから、やはり二人は自宅に向かっているのだろう。少しずつペースが早くなってきた。  公園に人影は見当らず、風もなく、濃い緑が闇《やみ》を余計に深くしていた。空には細い月が出ていた。木立の向こうにコンビナートのオレンジの明かりが光っていたが、手の届かないはるかな世界のまたたきに見えた。あたりがすっぽり緑の静寂に包まれ、息苦しいほどだった。その静寂の中にわたしたち三人だけが取り残されたような気分だった。自分の呼吸する音さえくっきりと聞こえた。  いつも歩くルートが決まっているのか、二人は相談するわけでもなく、ベンチの間や公衆トイレの裏や噴水の脇《わき》を複雑に通り抜けていった。尾行を見破られることよりも、二人を見失わないことの方に神経を使わなければならなくなった。暗闇に浮かぶスーパーの白いビニール袋だけが目印だった。  公園のそばに家などあっただろうか。だんだん不安になってきた。けれど今更尾行を中止することはできなかった。一人きりで薄暗い公園を引き返すよりは、どこまでか分らないけれど彼女たちについて行く方がずっとましだった。  いつの間にかわたしたちは木立の中の小道に入り込んでいた。足元に積もった枯葉が靴を隠した。名前の分らない、幹のつるつるした、細長い木がたくさん生えていた。静けさと冷たさが、凍りついた湖のように幹と幹のすきまを埋めていた。小道は曲がりくねりながら林の奥まで続いていた。運動公園にこんな大きな林があったなんて知らなかった。もう、産業道路のざわめきも聞こえず、コンビナートの光も見えなかった。月が頼りなく夜空を染めているだけだった。二人が一瞬も迷わず、怖がらず、疲れも見せず、ひたすらに進んでいることが救いだった。  どれくらい林の中を歩いたのだろう。ずいぶん時間が過ぎた気もしたが、暗闇がそういう錯覚を呼び起こすのだと自分に言い聞かせた。突然、目の前が開けた。そこは広々とした空間だった。三階建てのコンクリートの建物が規則正しく並び、その間をアスファルトの通路が区切り、所々に自転車置場と掲示板と花壇があった。柔らかい街灯の明かりが、それらを包んでいた。わたしは何か大きな声をもらしそうになって、あわてて口を押さえた。  二人は街灯の中を進んでいった。同じ位置関係を保ち、相変わらず無言だった。表情は見えないが、たぶん老婦人はひややかに澄ました顔、ミドリさんは慎ましく落ち着いた顔をしているに違いない。建物には側面の壁にアルファベットの目印がついていた。Bが傾いていたり、Fの角が欠けていたりした。どこかの企業の社宅か何かだろう。ただ、これだけたくさんの住宅があるというのに、人の気配はしなかった。明かりのついた窓はなく、所々破れたカーテンがのぞき、花壇の花は枯れ、ベランダの手すりには鳩《はと》の糞《ふん》がこびりついていた。コンクリートに覆《おお》われた眠りの塊が、いくつも連なっているかのようだった。わたしはもう、隠れたり足音に気をつかったりはしなかった。二人について行けば行くほど、自分がこの風景に溶け込んでゆくのが分ったからだ。  K棟とL棟の間にある、他の社宅とは種類の違う、二階建てだけれど少し大きめの建物に彼女たちは入っていった。回転式になったガラス扉《とびら》の奥へ、二人があまりにもあっさりと消えたので、わたしは急にどうしたらいいのか分らなくなってしまった。自分も中へ入ろうか。でもそのあと何をしたらいいのだろう。怪しい者と疑われるかもしれない。ミドリさんはたぶん許してくれるだろうが、あの老婦人はヒステリックに追及するだろう。追及されてもわたしには何も答えられない。それにしても彼女たちはなぜこんなところへ来たのだ。普通の住居とは思えない、淋《さび》しすぎるうらぶれた場所へ……。  あれこれ考えながらもわたしはおそるおそる門をくぐり、ステップを上がった。『社宅管理事務所』という看板が目に入った。文字《もじ》は半分消えかけていた。二階はひっそりとしていたが、一階の右側の部屋からは光がもれていた。わたしは右へ回った。  窓には分厚い灰色のカーテンが掛かっていた。壁にふれるとコンクリートがぽろぽろと欠けて落ちた。ガラスは埃《ほこり》で汚れ、窓枠《まどわく》は錆《さび》だらけだった。カーテンのすきまがほんの少ししかなかったので、中の様子はよく分らなかった。割合広い部屋で、いくつか細長い机とパイプの椅子《いす》が並んでいるようだった。天井からは鎖で蛍光灯《けいこうとう》がぶら下げられていた。あとは、消火器と旧式のストーブとその上で湯気を上げているやかんが見えた。微《かす》かに人の動く気配がするようにも思えたが、気のせいかもしれない。わたしは一度、唾《つば》を飲み込んだ。 「中へどうぞ」  その時突然、誰かの手が背中に触れた。    4 「遠慮なんかせずに、どうぞ」  その声はコンクリートの壁にぶつかり、冷気の中へ弾《はじ》けていった。掌《てのひら》はなかなかわたしから離れなかった。いつも痛みの発作が起こるあたりに、ちょうど置かれていた。心臓が高鳴り、膝《ひざ》が震えてきた。思わず窓枠を握り締めると、錆が刺さってちくちくした。 「長くこんなところにいると風邪をひきますよ。中はストーブがついているし、温かい飲み物もあります」  ようやくわたしは振り向いた。若い男の人が立っていた。 「さあ、さあ」  ここまでやって来たいきさつを説明しなければとあわてているわたしに構わず、彼はどんどん入り口の方に案内し始めた。  正確に言うとわたしは客ではないんです。ミドリさんとは顔見知りだけど、今晩約束していたわけではないし、第一お宅を訪問するほどの間柄《あいだがら》でもないんです。もちろん怪しい者じゃありません。泥棒《どろぼう》や詐欺《さぎ》やのぞきや、そういうのでは……。信じて下さい。ちょっとした純粋な興味だったんです。……  言いたいことはたくさんあったが、予想しない展開に驚いたのと、彼があまりにも早足で歩くので、ええ、とか、ああ、とか意味のない言葉しか出てこなかった。 『社宅管理事務所』の中は暖かかった。入ってすぐ右手にはカウンターがのびていた。その奥にはキャビネットやタイプライターやソファーセットが見えたが、何もかもが古びて埃を被《かぶ》っており、ここがもう事務所としては機能していないことを示していた。壁紙は剥《は》げ、天井は染みだらけで、床のあちこちにくぼみがあった。時々パンプスのヒールが引っ掛かった。カウンターの脇はトイレ、左手はがらんとしたロビー、正面は薄暗い階段になっていた。  顔はよく見なかったが、その人の後ろ姿はたくましかった。骨組みがしっかりし、肩幅が広く、セーターの上からでも肩甲骨《けんこうこつ》が元気よく動いているのが分った。健康そうな背中だった。ぐいぐいとわたしを建物の奥へ招き入れていった。 「さあ、入って」  ロビーの先にあるドアの前で彼は立ち止まり、大切な招待客を接待するように、上品な手つきでノブを回した。  さっき外からのぞいていた部屋だった。かなり広く、一段と暖かかった。無造作に並んだ椅子の一つに、ミドリさんが腰掛けていた。編み物をしていた。 「ようこそいらっしゃいました」  わたしに気づいてもたいして驚きもせず、編み棒を二本束ねて膝の上に置き、会釈《えしやく》した。他には誰もいなかった。老婦人も見当らなかった。わたしはどんな表情をしていいか分らず、ぎこちなく会釈を返した。 「適当なところに坐《すわ》って待っていて下さい。もうすぐ空《あ》くと思いますから」  彼が言った。 「空く?……」  何のことだろう。いよいよ不安になってきたが、彼とミドリさんの態度が穏やかにわたしを受け入れていたので、決して不愉快ではなかった。 「でも、あの方は一度お入りになるといつも長いから、もうしばらく時間がかかるかもしれませんねえ」  ミドリさんが言った。 「あの方というのは、プールでご一緒だったご婦人ですか」 「はい、そうですよ」 「入る、って、つまり……どこに入るんでしょう」  おずおずとわたしは尋ねた。ミドリさんと彼は顔を見合わせた。 「君は、カタリコベヤに入りに来たんじゃないの?」  驚いたふうに彼が声を上げた。 「僕はてっきりお客さんだと思ったのに」  カタリコベヤ……。状況はわたしが考えているよりずっと複雑そうだ。それが何を意味しているのか分らなかった。ここまでの道のりを整理するように、わたしはこめかみを押さえた。しかしそんなことをしても何の役にも立たなかった。 「まあいいじゃありませんか。どなただって最初からすべてを理解してここへいらっしゃるわけじゃないんですから。あれの効用を説明するのは難しいことですよ」  ミドリさんは後ろを振り向いた。視線の先、部屋の隅にタンスのようなものがあった。木製で、こげ茶色に塗装され、丁寧に磨《みが》き上げられており、品のある艶《つや》が出ていた。形は六角柱で、高さは二メートルくらい、扉はこちらからは見えず、何一つ飾りも模様もついていなかった。シンプルだが頑丈《がんじよう》で重々しかった。タンスとしてはどこか風変わりだった。今まで一度も目にしたことのない雰囲気をたたえていた。  その時、ガタンと音がして、六角柱の向こうから例の老婦人が姿をあらわした。 「どうもありがとうございました」  更衣室で見せていた図々《ずうずう》しさはすっかり消え、慎ましやかにお辞儀をすると、財布から取り出した一枚の紙幣と数個のコインを、机の上のガラスの器に入れた。つぶやくような澄んだ音がした。 「またいらして下さい」 「お気をつけて」  ミドリさんと彼が言った。老婦人はコートを着ながら何度も頭を下げた。わたしと目が合ったが、特別表情は変えなかった。更衣室で会ったことは忘れているのかもしれない。そのまま彼女は部屋を出ていった。 「さあ、空いたけど、どうする? 君の番だよ」  彼が言った。 「どうするって言ったってユズルさん、こちらはまだずいぶんと戸惑っていらっしゃるようよ」  ミドリさんは編みかけの毛糸玉を掌にのせた。わたしはスイミングキャップのてっぺんについていた玉飾りを思い出した。 「あの中には、いったい何があるんです?」 「君は本当に何も知らずにここへやって来たんだねえ」  ユズルと呼ばれた青年はあきれたふうに、しかし責める感じではなくそう言った。 「ごめんなさい。ここに用事があったわけじゃなく、ちょっとふらふらしているうちに、迷い込んでしまったの」  ミドリさんをつけて来たことは、言わないでおいた。 「きっかけなんてどうでもいいんですよ。寒くて暗い中、ここまでたどり着けたことが大事なのよね」  誰に同意を求めるでもなく、ミドリさんは一人でうなずいた。 「簡単に言ってしまえば、カタリコベヤの中には何もないんだ。人一人が腰掛けられるだけのベンチと、ランプ。それだけ」  ユズルさんはわたしのそばに自分の椅子を近づけた。 「あの六角柱がカタリコベヤなんですね。で、そこで何をするんでしょうか?」 「語るのさ」  余計な飾りをつけず素直に、彼はその言葉を口にした。 「好きなこと嫌《きら》いなこと、心の奥に隠したもの隠しきれないもの、迷っていることうれしいこと、昔の話先の話、真実|出鱈目《でたらめ》、とにかく何でも構わない。その時自分が望むことを語るんだ」 「ミドリさんとあなたに?」 「違うよ。僕たちはただの世話係さ。さっきも言ったとおり、小部屋の中では一人きりだ。声は外にはもれてこない。もちろん盗聴器なんていう仕掛けもない。誰に向かって語るか、それもみんなの自由なんだ。自分自身に向かってという人もいるだろうし、架空の誰かを作り上げる人もいるだろう」 「つまり、カウンセリングですか?」 「いいや、違う。彼らが小部屋で何を語ったか、僕らには一言も分らないからね。アドバイスのしようもない。それにあそこから出てきた人は、僕たちとはほとんど何も言葉を交わさずに帰ってゆく。さっきのご婦人もそうだったけど。小部屋で十分に言葉を使い果たしてしまうからなんだろうね、きっと」 「となると、宗教のようなものなのかしら」 「宗教じゃない。僕たちは特別な教えを説いたりはしないし、祈ったりもしない。だいいちここには神様なんていないよ。ここはただの社宅管理事務所だもの」 「じゃあ、何のためにこんなことをしているの?」 「そうだなあ、一番適切な表現は、商売かな。だってああして、お金をいただいているんだから」  わたしたちは同時に、ガラスの器に目をやった。大金が入っているようには見えなかった。淡いブルーに色付けされたガラスの中で、お金も同じ色に染まっていた。その向こうに語り小部屋があった。味気ない風景の中で、そこにだけは心を引き止める表情があった。 「だいたいの仕組みは理解できた?」  ユズルさんが尋ねた。 「ええ、まあ」  わたしはあいまいにうなずいた。本当は話を聞く前よりも分らないことが多くなっていた。 「どうする? 入ってみる?」 「そんなに急《せ》かせちゃあ、お気の毒ですよ。望みもしないのに語り小部屋に入ったって、ただ窮屈なだけでしょう」  ミドリさんは微笑《ほほえ》んだ。ユズルさんはストーブに両手をかざしながら、わたしの答えを待っていた。  その時、誰かが部屋に入ってきた。スマートな背広を着込み、革の書類ケースを持った、五十歳くらいの紳士だった。語りにやってきたお客さんに違いない。わたしはとっさに立ち上がった。 「お手間を取らせてごめんなさい。わたしがぐずぐずしていたら他のお客さんにご迷惑ですから、とりあえず今日は帰ります。語り小部屋が気に入らないんじゃありませんよ。むしろその反対です。ただちょっと、消化するのに時間が必要なだけなんです。突然に飛び込んできたのに、お二人には親切にしていただいて感謝しています。きっとまたお会いできると思います。きっと」  それだけのことを早口で喋《しやべ》ると、わたしはマフラーとオーバーを一つに丸めて抱え、戸口に向かった。 「送っていこうか? 帰り道が分るかい?」  背中からユズルさんが声を掛けてくれたが、わたしは「いいえ、大丈夫です。大丈夫です」と繰り返した。ミドリさんも何か言いたそうだったが、結局毛糸玉を右手から左手に持ちかえただけだった。  扉を閉める時、紳士が背中を丸め、語り小部屋に入ってゆくのが見えた。  社宅管理事務所での出来事は強くわたしの中に残った。朝目覚めた瞬間や、仕事の合間や、駅のホームでぼんやりしている時、ふと気がつくとあの夜のことを思い出していた。思い出すことが自分にとって一番大事な作業になっていた。どんなに面倒な仕事も、先輩職員のヒステリーも、背中の痛みさえも、語り小部屋の前では現実味を失ってゆくのだった。  だから大学のエレベーターで美知男と二人きりになった時も、心を乱されはしなかった。 「付き合っている間、こんな幸運は巡ってこなかったのにな」  気まずさをごまかすように美知男が言った。わたしは何も答えなかった。確かに彼の言うとおりだ。同じ大学の職員と、付属病院の医師でありながら、会いたくてたまらなかった時は仕事中一度も会えなかった。顔を見る必要もなくなると、こうして偶然が訪れる。 「何階?」  美知男が聞いた。 「十六階」  たぶん愛し合っていた頃《ころ》の彼なら、芝居めいた格好でわたしを抱き寄せただろう。エレベーターが止まったら、あわてて身体《からだ》を離し、意味ありげなめくばせをする。それから病室へ向かい、わたしに触れたのと同じ手で、患者の鼻にチューブを差し込んだり、肛門《こうもん》に液を注入したり、肺にたまった水を抜き取ったりする。 「じゃあ、お先に」  美知男は片手を上げた。白衣のポケットからはみ出した聴診器が揺れていた。  牽引《けんいん》治療を受けている二十分の間は、あの夜をゆっくりと思い返してみる貴重なひとときになった。身体が固定され自由がきかなくなればなるほど、記憶が一点に集中してゆくのだった。記憶の中では、スーパーでのミドリさんの様子から、産業道路、公園、林へと至る道のり、社宅管理事務所の雰囲気《ふんいき》、ユズルさんの声と姿、編みかけの毛糸玉、そして語り小部屋のたたずまいまでが全部ひと続きになっていた。どれか一つ欠けても記憶は成立しなかった。  相変わらず滑車は油切れで耳障りな音を立てながら、背骨を引っ張っていた。目を閉じると、六角柱のこげ茶色の表面が浮かんできた。木目模様の隅々《すみずみ》にまで塗料がしみ込み、指紋一つついていなかった。更に注意深く観察すると、角のところにはそれぞれ三つずつ蝶番《ちようつがい》が取り付けられていた。丈夫そうな蝶番で、ねじがしっかり埋め込まれていた。わたしは耳をすませてみた。もしかしたら誰かの声が、中から聞こえてくるかもしれないと思ったからだ。けれど耳に届くのはただ、滑車の軋《きし》む音だけだ。 「もしもし」  いつの間にか看護婦さんがのぞき込んでいた。白衣の向こう側から冬の光が差し込んでいた。 「終わりましたよ」  看護婦さんは身体中に巻きついたベルトと金具を外した。 「あちらで注射を受けてから帰って下さい」  足首と肩を少しだけ動かしてみた。すっかり身体は自由になっていた。  帰り道が分るかい? と尋ねてくれたユズルさんは正しかった。あのあとわたしは林の中で道に迷ってしまい、なかなか運動公園まで戻ってくることができなかった。背の高い同じ種類の木がただ生えているだけで、巣箱や案内板や休憩所や、そういう目印になるようなものが何もない、淋《さび》しい林だった。  金曜日の夜、六角柱の中で何を語るかということは別にして、とにかくミドリさんとユズルさんを再訪しようと決心した時、果たしてあそこへたどり着けるかどうかが一番の心配だった。運動公園までは問題なかった。日頃目にしているありふれた風景だった。ところが林の中へ足を踏み入れたとたん、空気が冷たくなるような闇《やみ》が深くなるような気がして、記憶の波が乱された。ミドリさんたちはなぜあんなにも迷いなくここを通り抜けてゆけたのか不思議だった。秘密の印が隠されているのかもしれないと、枯葉の下や枝の先を調べてみたが無駄《むだ》だった。  ただもう、奥へ奥へと入っていった。一人きりでも怖くなかった。寒くもないし、お昼から何も食べていないのに空腹でもなかった。余計な人はここにはいない。もし誰かが歩いていたとしても、それは語り小部屋へ向かう人だから大丈夫だ、という根拠のない確信があった。  ミドリさんたちを尾行した時の三倍は歩き回った。何度見上げても、月は同じ所に浮かんでいた。足にまとわりついてくる枯葉のせいで、ストッキングが破れているのではないかと心配だった。寒さは感じなくても、指や爪先《つまさき》や唇《くちびる》がしびれてきた。どこまで行っても、妙に光沢のある手触りのよさそうな幹が、次から次へと現われてくるだけだった。  やっぱり無理かもしれない。  そう思った瞬間、社宅群を照らす街灯の明かりが闇の向こうに見えた。  六角柱のある部屋は、前回来た時と比べて様子が違っていた。ミドリさんとユズルさんの姿は見えず、そのかわり知らない人たちが何人か、ストーブを真ん中にして円を描くように腰掛けていた。それぞれ好きな方向に椅子《いす》を向けてはいたが、どことなく順番があるようだった。数えてみると九人いた。  年齢も性別も服装もばらばらだった。おじいさんもいれば少女もいた。スキージャケットの人もいれば、毛皮の衿《えり》がついたロングコートの人もいた。ただみんな黙っているという点においては同じだった。書き物をしたり、本を読んだりする人もいなければ、居眠りをしている人もいなかった。わたしが入っていくと一瞬顔を動かしたが、すぐにまた前を向き、宙の一点に視線を戻した。わたしは建築現場の作業服を着たおじさんの隣に坐《すわ》った。 「皆さん、語り小部屋に入りにいらしたんですか?」  静けさを乱さないよう十分に気をつけたつもりだったが、わたしの声は天井に弾《はじ》け、部屋中に広がった。面倒そうにおじさんは首を縦に振った。  そうか。こんなふうに混雑している日もあるのか。ところでみんな、どうやってこの部屋について知ったのだろう。看板も出ていないし、ちらしを見かけたこともない。なのにこんな廃墟《はいきよ》の社宅にちゃんと人が集まっている。こういう商売は世の中に普通に存在しているのだろうか。わたしは一度も耳にしたことはないけれど。でも、今ここに来ている人たちはみな常連のようだし、やはり語り小部屋はわたしの知らない場所で、ある特定の役割を果たしてきているのだろう。  語り小部屋は同じ位置にあった。移動式黒板や演台が置いてあるのとは反対の壁際《かべぎわ》だった。視線のどこかにその六角柱が入るような角度に、みんな椅子を向けていた。ストーブはずっと燃え続けていた。時々、やかんの口からこぼれた水滴がじりじりいいながら蒸発していった。 「こちらは何回めですか?」  好奇心を押さえきれず、わたしはまたおじさんに尋ねた。彼は左手をぱっと広げてすぐに引っ込めた。五回めらしい。 「古くからあるんですか?」  今度は表情を変えずに首だけ傾けた。 「ミドリさんとユズルさんはどちらにいらっしゃるんでしょう?」  その時おじさんの向こうにいた学生ふうの男性が振り向き、露骨に迷惑そうな顔をして一言「しっ」と言った。あわててわたしは口を押さえた。  もしかしたらここでは口をきいてはいけないのかもしれない。これからみんな思う存分語るのだ。それまでに不必要に言葉をもらしたら、小部屋の効果が薄れるのだろう。ほかにもきっと、いろいろ思いも寄らない規則があるに違いない。  語り小部屋から一人の若い女性が出てきた。長い髪が頬《ほお》に掛かっていたので表情は見えなかった。老婦人がしたのと同じように、ガラスの器にお金を入れると、わたしたちの方を見向きもせず、あいさつの言葉もなく、扉《とびら》の向こうに消えていった。それと入れ違いに、六角柱の一番近くにいた腰の曲がったおばあさんが立ち上がり、入っていった。その間もずっと無言だった。必要最小限の音しか聞こえなかった。すべてが儀式のように厳《おごそ》かに進んだ。  三分ほどですぐ出てくる人、三十分近くこもっている人、いろいろだった。順番が近づくにつれ、だんだん心配になってきた。本当にあそこへ入って大丈夫なのだろうか。中に誰かが潜んでいて、いかがわしいことをされるとか、高いお金をだまし取られるとか、妙な団体に勧誘されるとかいう事態になったら面倒だ。もしユズルさんの言うとおりだったとしても、何を語ればいいのか見当がつかない。ただ中をちょっと見学するだけではいけないのだろうか。やはりそれは、規則で禁じられているのだろうか。……  作業服のおじさんが出ていった。残りはわたし一人になった。ストーブの火力を調節したり、背伸びをしたり、ハンカチをたたみ直したりして時間を稼《かせ》いでみたが、状況は変わらなかった。ミドリさんもユズルさんも現われなかった。語り小部屋だけがひっそりとたたずんでいた。  慎重にわたしは近づいていった。全体をよく眺《なが》めてから壁際へ回った。扉は想像していたよりもずっと小さかった。真鍮製《しんちゆうせい》の丸いノブがついていた。多くの人の手が触れたらしく、くすんで黒光りしていた。わたしは身体を小さくしてそこをくぐった。  中は本当に、人一人分のスペースしかなかった。薄暗く、ひんやりしていた。目が慣れるまでしばらく時間がかかった。壁に手をやると、掌《てのひら》から静けさが伝わってくるようだった。  天井からランプが吊《つ》り下げられていた。炎は青白く、弱々しかった。風などないのに、微《かす》かに揺れていた。正面の壁には横板がはめ込まれており、それがベンチらしかった。確かにランプとベンチ以外、時計もクッションも灰皿も、何も余計な物はなかった。しかし決して殺風景ではなかった。密度の濃い空気が隅々にまで満ちていた。  盗聴器のような仕掛けが隠されているかもしれないと思い、うずくまって床とベンチの裏を調べ、壁をノックし、ランプのシェードをはずしてみた。どこも塵《ちり》一つないように磨《みが》かれていた。怪しいものは何も見つからなかった。  疑うのはやめてわたしはベンチに腰を下ろした。気のせいか真ん中がややくぼんでいた。ただの板にしては坐り心地は悪くなかった。目の高さのやや上あたりにランプがあった。わたしは二、三度|咳払《せきばら》いをし、試しに「あー、あー」と声を出してみた。どれくらいの音量が適当なのか分らなかったからだ。わたしの声はどこにも逃げず、六角柱に囲われた静寂の中へ溶けていった。    5  ユズルさんの言っていたことに間違いはなかったんですね。つまりここが、ただ語るためだけの小部屋だ、ということ。  彼を信用していなかったのではありません。むしろ彼は誰に対しても安心感を与えるタイプの人だと思うし、ミドリさんはこちらが思わず手を差しのべてあげたくなるような無防備な人だから、好感は持っていたんです。そうじゃなければ、社宅管理事務所を再び訪れたりはしません。  でも初めてここの仕組みを聞かされた時は戸惑いました。こういうものが世の中に存在しているなんて、今まで一度も聞いたことがありませんでしたから、すぐには納得できなかったんです。どこかに盗聴器を隠しておいて、人の秘密を聞き出してはそれを種にゆすっているのではないかしら、などと低俗な疑いを持ったこと、どうか許して下さい。もっとも今でも、わたしはすべてを理解できたというわけではありませんが……。  こんな具合でいいのでしょうか?  やや視線を上げ、六角形の壁に向かってわたしは尋ねた。しばらく耳をすませてみたが、何の返事もなかった。  やっぱり、誰も聞いている人はいないのですね。まあ、とにかく続けましょう。  つまりこれは独り言のようなものなのでしょうか。他人の目を気にせず、自分の好きなスタイルで、思う存分独り言をつぶやくことのできる箱。そう考えるといくらか納得がいきます。時々地下鉄の中や病院の待合室で、ひどく真剣な顔をして、休みなく独り言をつぶやいている人を見かけます。たいていみんなから気味悪がられ、のけものにされています。そして回りには不自然な空間ができています。そういう人をその空間ごと語り小部屋へ閉じ込めてあげれば、きっと喜ばれるに違いありません。狭ければ狭いほど自分の声がはっきり聞こえ、心のありようまでが確かに浮かび上がってくるような気分になれるはずです。独り言の快感です。  さて、わたし自身について喋《しやべ》りましょう。自分について語らなければ、ここへ入った意味はないと思うんです。たぶん。  偶然と運命は反対語でしょうか。最近わたしがしばしば考え込んでいる問題です。ちょっとした偶然がきっかけになって、運命が大きく変わる、という話はよく聞きます。モノレールの中で気分の悪くなった人を介抱していたら、予定の飛行機に乗り遅れ、その飛行機が墜落してみんな死んだとか、パレスホテルで人と待ち合わせたのにプラザホテルと勘違いし、ロビーで暴力団の抗争に巻き込まれ流れ弾に当たって死んだとか。  気分の悪い人と隣り合わせるのも、パレスホテルとプラザホテルを間違えるのも、ささいな偶然です。でも、その結果もたらされた運命は強烈です。ある人は飛行機事故から救われ、ある人はピストルの弾で死ぬ。運命について考える場合一番分りやすいのは寿命だと思うのですが、人間の寿命は生まれた時から既に定められているのでしょうか。死ぬ日時は遺伝子に組み込まれているのでしょうか。だとすると、さっきの二つの例は偶然でも何でもありません。その人はどんな小細工をしようが、その日気分の悪い人の隣に坐らなければならないのだし、ホテルを勘違いしなければならないのです。そう定められているのです。  本人の意志や努力によって運命を切り開けると信じている人もいるかもしれません。けれど、意志や努力が既に運命なのだと、わたしは感じます。決して人生を否定しているのではありません。次の瞬間何が起こるか、わたしたちには少しも知らされていないのですから、やはり常に自分の力で選択したり判断したり築いていったりしなければならないでしょう。いくら運命が動かしがたいものだとしても、すべてをあきらめてしまうなんて愚かです。誰にとっても運命の終着は死ですが、だからと言って最初から生きる気力を失う人は、たぶんあまりいないはずです。  わたしは咳払いをした。口をつぐむと語り小部屋はあっという間に静けさに覆《おお》われた。話がだんだんややこしくなってきて、自分でも退屈してきた。次のお客さんが待っているかどうか、外の様子をうかがおうとしたが、何も伝わってこなかった。わたしはベンチに深く坐り直した。  どうもリズムに乗れませんね。最初は誰でもこんな具合なのでしょうか。こつをつかむまでしばらく時間がかかりそうです。  なぜこんな大げさな話をするかというと、美知男のせいなのです。彼と別れたことが、わたしの調子を狂わせているんです。背中が痛みだした時期ともちょうど重なり合っています。彼と別れて淋しいとか辛《つら》いとか憂鬱《ゆううつ》だとかいうんじゃありません。それなら話は単純なのですが、実際はもっと醜いのです。  わたし、彼のことがたまらなく嫌《きら》いになったんです。だから別れました。他に好きな人ができたわけでも、彼に暴力をふるわれたわけでもありません。ただただ、理由もなく嫌いになったのです。  あんなにも好きだった人を、どうして突然、しかも徹底的に、嫌いになれるのか不思議でたまりません。生まれて初めて人を憎んだのです。もしわたしが反対の立場だったら、美知男に捨てられたとしたら、追いすがり、嘆き悲しみ、後悔し、思い出に浸り、涙を流すでしょう。さまざまな感情を味わうでしょう。しかし今のわたしには憎むことしかできません。  わたしを最も苦しめているのは、“正当な”理由がないということです。誰もが納得してくれる理由があったら、どんなにか救われることでしょう。事態がすすめばすすむほど、彼は同情を集め、自分でも自分を哀れみ、善人の部分に磨きをかけてゆきますが、わたしはただ醜くなってゆくばかりです。こんな嫌《いや》な気分に陥るのもすべて美知男のせいなのだと、さらにわたしは彼を憎みます。歯止めがききません。  憎しみの感情が訪れた最初の偶然を、よく覚えています。わたしたちはお互いの親友を招待し、パーティーを開こうとしていました。友人たちもそれぞれ恋人と一緒に来ることになっていました。その席でわたしたちは婚約を発表するつもりでした。美知男はひそかに指輪を用意し(結局一度もそれを指にはめることはありませんでしたが)、シャンパンを選び、テーブルと窓と床を磨き、二人の婚約式がよりロマンティックなものになるよう、プログラムをいろいろ考えている様子でした。  わたしは料理担当です。その日のために専門的な料理の本を買い込み、道具を揃《そろ》え、材料は最高級のものを選びました。お金なんて少しも惜しくありませんでした。わたしたちは忙しく、幸せでした。  本当に何もかもが完璧《かんぺき》に輝いていました。空には星がきらめき、部屋は清潔で、シャンパングラスには曇り一つなく、ドレスはきれいに身体《からだ》にフィットしていました。その完璧さが二人の関係を象徴しているかのようでした。わたしたちは忙しい作業の合間に何度も手を握り合い、キスをしました。  友だちのやって来る時間が迫って、いよいよ料理も最終段階に入りました。メインはパエリヤです。とても美味《おい》しそうに仕上がりました。お米は一粒一粒サフラン色に染まり、その上に魚介類が並んでいました。海老《えび》のひげなど今にも動きだしそうでした。美知男はその大きな鉄の鍋《なべ》を両手でつかみ、テーブルへ運ぼうとしていました。わたしはオードブルにオリーブの実を飾っていたので、彼の動作をじっくり観察していたわけではありません。ただ視界の隅《すみ》を平たい鉄の鍋と彼の後ろ姿が横切っただけです。だから最初、何が起こったのかすぐには分りませんでした。  気がついた時、彼はうなり声ともうめき声ともつかない意味不明の言葉を発して、床に尻餅《しりもち》をついていました。パエリヤの鍋は中身をまき散らしながら一回転し、彼のそばで引っ繰り返っていました。お米や赤ピーマンや海老やムール貝が空中で花火のように弾け、落ちてゆくさまを、わたしははっきり見たように思いました。もちろん錯覚です。わたしが顔を上げた時、彼はもう倒れていたのですから。  脳卒中か何かで彼が失神したのではないかと一瞬思いましたが、そうではありませんでした。ただ転んだだけです。自分で磨いた床に滑ったのです。彼は微笑《ほほえ》んでいました。唇《くちびる》を半開きにし、目尻に皺《しわ》を寄せ、おかしくて情けないような、許しを請《こ》うような、照れるような微笑みを浮かべていました。  新調したスーツの袖口《そでぐち》とズボンの片側に、べっとり油が染みついていました。ムール貝が一個、ベルトの間にはさまっていました。床に落ちたパエリヤからは微かに湯気が立ち上っていました。わたしは抽象的な絵画を眺めているような気分でした。さっきまで鍋におさまっていたパエリヤが完璧なものであっただけに余計、床に散らばったそれが、美知男を含め惨《みじ》めなものに見えました。救いようがなく、決定的で、残酷なものに……。  どれくらいの間、わたしは目の前の風景を眺めていたのでしょう。その間ずっと彼の微笑み——というか顔のねじれ——は消えませんでした。ポケットベルがパエリヤの中に半分埋まっていました。彼がいつも腰につけているポケットベルです。レストランでメインディッシュを一口食べたとたん、ベッドで裸になったとたん、それはしばしばピーピーと鳴りました。すると彼は申し訳なさそうにわたしに視線を送ってから、病院に電話をかけます。患者さんが死にそうになっているのです。  わたしはあの音をどれだけ恐れていたことでしょう。どんなざわめきの中でもおかまいなく、厳密にまっすぐ響いてくる音は、鼓膜に突き刺さり、痛みを残し、死と別れを思い起こさせました。彼はわたしを一人ぼっちにして、死にゆく人の元へ向かいました。  そのポケットベルが今はサフランライスにまみれているのです。  これが、美知男とうまくいかなくなった最初の偶然です。ばかばかしいと思われるでしょう。彼は何一つ悪いことはしていません。ただちょっと失敗しただけです。笑って許してあげれば簡単にすむ話です。しかしどうしてもわたしはこの偶然を、すんなりと通りすぎることができなかったのです。何度も言うように理由は分りません。彼のぶざまな姿に幻滅した、というような単純な感情では説明できません。もっと絶対的な時間の切断が起こったのです。  結局そのあとすぐ友人たちが到着し、後片付けを手伝ってくれました。みんないい人たちですから不愉快な表情など見せず、冗談を言い合いながらわいわいとその場をおさめてくれました。ただわたしだけがふさぎ込んでいました。みんなちょっとわたしがへそを曲げているだけだと思ったようです。美知男さえも。しかし本当はもっと深刻な思いにとらわれていたのです。誰もがわたしの機嫌《きげん》を直そうと、気をつかっていました。でも何の効果もありませんでした。婚約式は取りあえず延期しました。わたしは黙って床を拭《ふ》きました。拭いても拭いても、床にはパエリヤの油が残っていました。  もしあの時美知男が転ばなかったら、わたしたちはうまく続いていただろうか、と考えることがあります。でもそんな想像無意味です。彼を憎む運命は遺伝子が作られた時から既に定まっていたのでしょうから。  そういえば今思い出しました。ミドリさんが似たようなことを言っていました。『ここまでたどり着くことが大事なのだ』と。  どんな道筋をたどろうとも、わたしたちはただ、あらかじめ定められた場所へ向かうしか他に方法はないのです………………  わたしは一つ長い息を吐き、靴《くつ》の先で床の木目をなぞった。とんでもなく長い時間喋り続けたような気がした。しかし語り始める前とあとで、小部屋の雰囲気《ふんいき》には何の変化もなかった。ランプの炎の大きさも、六角柱の壁の色合いも、ベンチの感触もそのままだった。語り終えた合図をどういうふうに送ったらいいのか分らなかったので、わたしは立ち上がり、その場で丁寧にお辞儀をした。  語り小部屋から出る時、空気の質が一瞬のうちに変わるのを感じた。それまでわたしを包んでいた膜が急速に乾燥し、ぽろぽろとはがれ落ちてゆくようだった。わたしは財布からお金を取り出し、ガラスの器に入れた。それは縁がフリルのようにカーブした、かき氷用の器だった。  視線を上げると、ストーブのそばにミドリさんとユズルさんがいた。 「どうだった? 語り小部屋を満喫できた?」  ユズルさんはテーブルにカップを並べながら尋ねた。 「感想を聞かせてよ」 「そんなことをお尋ねするのは酷ですよ。たった今出ていらしたばかりなんだから」  返答に困っていると、ミドリさんがそう言って助けてくれた。  二人はわたしを語り小部屋の置いてある部屋の奥に案内した。遠慮したのだが、お茶を一杯だけ飲んで行けと勧められたのだ。そこは黒板の脇《わき》の扉《とびら》を開けた向こう側にあり、六畳くらいの広さでこぢんまりしていた。流し台とガスコンロ、冷蔵庫、食器|戸棚《とだな》、バタフライテーブル、ふぞろいの椅子四脚、小さな石油ストーブ、段ボールに入った十数冊の本、保健室にあるようなパイプのベッド。目についた品々はそういうところだった。社宅管理事務所全体のうらぶれた感じからすると、そこにはいくらか人間が生活している体温が漂っていた。 「さあ、どうぞ」  ユズルさんは手際《てぎわ》よくお茶をいれた。中国のお茶らしかった。 「ゆっくり休んでゆくといいよ。あそこに入ると誰でも、思った以上に体力を消耗するんだ。本当は利用してくれた人全員にここで休憩してもらいたいんだけど、人数が多いからなかなかそうもいかないんだ」  ミドリさんは両手でカップを包み、唇をすぼめて一口飲み込んだ。  確かに、得体の知れない疲労感が残っていた。たくさんの言葉を吐き出して胸が空っぽになったというよりは、自分の言葉たちが溶け出した語り小部屋の静寂を吸い込んで、胸の中が濃密になったような気分だった。 「一つ、お聞きしてもいいかしら」  わたしは言った。 「お二人はどういう間柄《あいだがら》なんでしょう」 「親子だよ」  あっさりとユズルさんが答えた。わたしは勝手に、何かもっと込み入った関係ではないだろうかと想像していたので拍子抜けした。 「ここで営業を始めて長いんですか?」 「一か月くらいかな」 「こんな場所があったなんて、全然気づかなかったわ」 「ここに来る前はもっと西にある山の中の村にいた。僕たちはずっと旅をしているんだ。語り小部屋を持ってね。その町の空き家や、廃校になった小学校の講堂や、潰《つぶ》れたマーケットなんかを借りて、部屋を置かせてもらっている。この社宅管理事務所を借りられたのはラッキーだったよ。持ち主の会社が倒産して、こんな広い場所が自由に使えるんだ。待っている人たちがみんな坐《すわ》れるだけのスペースがあるし、暖房も効くし、湯沸かし室もついている。これほど居心地のいい場所は少ないよ」 「なぜ旅をするんですか?」  ユズルさんは一度わたしから視線を外し、人差し指でポットの把手《とつて》を下から上へなぞった。ミドリさんはカップを口につけたまま、何度もまばたきをした。 「一つの町で語り小部屋を必要としている人の数は限られているし……」  言葉を選びながらユズルさんは答えた。ミドリさんは黙ったまま、喉《のど》を鳴らしてまたお茶を飲んだ。 「同じ人だけが繰り返し利用するのは望ましいことじゃない。さっきも言ったとおり、あそこではある特別な神経だけが酷使される。それが快感や解放や決着をもたらすわけだけれど、でも長い時間語れば語るほど効果が高まるとは限らない。むしろ逆だ。語り小部屋が役に立つのは、その人の人生のほんのひとときでしかないんだ。だからできるだけたくさんの町を回っているんだ」 「長く小部屋にとどまるとどうなるの?」 「神経のバランスにぶれが生じて、困った事態になるだろうね。実験したわけじゃないからはっきりは言えないけど。あそこだけに閉じ込められている空気や時間や光にからめ取られて、外の世界に戻ってこられなくなるんじゃないだろうか」  彼が大げさな言葉を使うのでわたしは戸惑い、どう相づちを打っていいのか分らなかった。  扉の向こうで人の気配がした。ユズルさんは扉のすきまから様子をうかがったが、すぐ戻ってきた。 「お客さんだ」 「語り小部屋のそばにいて、受付けをしたり、説明をしたり、お金の計算をしたりしなくてもいいの?」 「うん。たいてい僕たちはこの部屋にいる。あっちにずっといると、監視しているみたいで嫌だからね。それにここに来る人たちはみんな、それぞれにもう小部屋について納得しているんだ。説明なんて必要ない。君みたいに質問ばかりするお客さんは特殊だよ」 「あら、ごめんなさい」  わたしが謝ると、ミドリさんは「いえ、いえ。どうぞお気になさらないで」というふうに生真面目《きまじめ》に首を横に振った。  ミドリさんはほとんど喋《しやべ》らなかった。足をきちんとそろえ、膝《ひざ》の上に両手をのせ、心持ち背中を丸めてじっとしていた。わたしたちの会話に無関心という様子ではなく、反対に目の表情などは敏感に反応していた。ただ、その場の雰囲気を邪魔しないよう慎ましくふるまっていた。更衣室で会った時と変わらず、特徴のない服装と髪型だった。部屋の空気の見えないすきまを見つけて、そこに身体を滑り込ませているかのようだった。決してわたしはミドリさんを疎《うと》ましく思ってはいないし、むしろもっと一緒にお喋りをしたいくらいなのだが、彼女のそういう特質を妙に好ましく感じた。 「あの……こんな言い方は失礼かもしれないけど、つまりお二人はここでじっとしている以外、他にあまりお仕事はないんですね」  遠慮しながらわたしは言った。ユズルさんは愉快そうに声を上げて笑った。 「その通りだよ。僕たちはただ語り小部屋のための場所を探し、それを設置し、あとは待っているだけ。単純な仕事だよ」 「いいえ。単純なんかではないわ。部屋の作りは簡単でも、その機能は限りなく奥深いのと同じように、お二人の役割もきっと、複雑だと思います」 「さあ、どうだろう、ねえ、母さん」  ユズルさんは初めてミドリさんの方を見た。ミドリさんはしきりに首をかしげ、考え込んでいた。 「ユズルさんより私の方がずっと何にもしておりませんよ。こうしてお茶をいれてくれるのもこの人ですしねえ」  彼女は残りのお茶を飲み干した。 「僕たちはいつでも待っている。宣伝なんてしない。必要な人はおのずと僕たちのところへたどり着くんだ。語り小部屋は一日二十四時間、年中無休で開いている。いつでも、どんな人でも受け入れる。だから僕もこの部屋のそばを片時も離れず、ここで食事をし、本を読み、眠る。時々は母さんと交替するけどね。まあ、番人のようなものさ」  彼はおかわりのお茶を注《つ》いだ。  番人という言葉はとてもぴったりくる、とわたしは思った。その物がいつもと変わりなく存在できるよう、静かに見守る。時にはちょっとした修理をしたり手入れをしたりするけれど、形をいじったり、新しく何かを付け加えたりはしない。祈りにも似た態度でそれを慈《いつく》しむ。その回りで時間は流れ去らず、幾重にも折り重なってゆく。訪れる人があれば快く応じ、見向きもされなくても心を乱されはしない。ただ穏やかに視線をそこに集めている。……そういう番人だ。  外へ出ないからだろうか、ユズルさんは色白だった。筋肉質のたくましい体形には似合わない、白く透き通った肌《はだ》をしていた。柔らかそうな髪、清潔な指、すべての言葉を吸い取る耳、優しさをたたえた唇、よく履き込んだ丈夫そうな靴《くつ》。彼にまつわる何もかもが番人としてふさわしい姿に映った。  しばらく会話が途切れた。夜は深まっていた。いくらか胸の濃密さが薄らいだような気がした。ミドリさんは椅子《いす》の下から紙袋を取り出し、編み物を始めた。やはり、他に説明の言葉が見当らない、地味な毛糸だった。セーターの身ごろらしかったが、前見た時と比べてあまり進んでいなかった。 「旅をすると言っても、あの六角柱をどうやって運ぶの?」  質問ばかりしては失礼だと思いながら、どうしても聞きたいことが浮かんでくるのだった。 「分解して、折り畳んで、コンパクトにまとめて運ぶんだ」  ユズルさんは両手で板を折り畳む真似《まね》をした。わたしは六角柱がばらばらにされ、スーツケースくらいの大きさに姿を変えられ、彼の腕の中に収まる様子を想像してみたが、うまくいかなかった。  扉の外でまた人の動く気配がした。さっき語り小部屋へ入った人が出てきたらしい。今度はユズルさんはのぞきに行かなかった。もしお金を払わないで帰られたらどうするのだろう。きちんとした受付けもなしにお金の管理ができるのだろうか。しかもかき氷の入れ物だ。出来心で誤魔化す人がいるかもしれない。しかしユズルさんもミドリさんも、そんな心配は少しもしていない様子だった。  もう十分にお茶を飲み、休息した。そろそろ失礼する頃合《ころあ》いだった。 「すっかりお邪魔してしまって、ごめんなさい」  わたしは立ち上がった。 「とんでもない。楽しかったよ」  ユズルさんは微笑《ほほえ》んだ。混じりけのない、まただからこそはかなげな笑顔だった。 「いつでも遊びに来てよ」 「お待ちしております」  ミドリさんは編み物の道具をテーブルの上に置き、お辞儀をした。毛糸玉の入った紙袋がガサガサ音をたてた。 「おやすみなさい」 「おやすみなさい」  二人に見送られて、わたしは管理事務所をあとにした。    6  例の小部屋で語ったからといっても、顕著な変化は生じなかった。入試のシーズンを迎えて仕事が忙しくなり、毎日が慌《あわ》ただしく過ぎていった。背中の発作も相変わらずだった。映画を観《み》たり、お酒を飲んだり、バーゲンの洋服を買いに行ったりする気分にはなれなかった。スポーツクラブからも足が遠のいた。仕事の帰り、あるいは休日の午後、社宅管理事務所を訪れることだけがわたしにとって特別なひとときになった。  ただちょっと妙な出来事が続いた。一瞬背中がぞくっとはするが、取り立てて気にしなければ、どうということはない種類の出来事だった。  まず、台所のオーブントースターの下からコンサートのチケットが一枚出てきた。美知男とまだうまくいっていた頃、一緒に行く約束をしていたのだが、わたしがチケットをなくしてしまったのだ。あの時二人で部屋中を探し回っても見つからなかったのに、どうして今頃、しかもこんな所から出てきたのかよくわからなかった。日本では滅多に聞けない有名な外国のオーケストラと指揮者のコンサートで、美知男が楽しみにしていたから、大切に手帳の後ろにはさんでおいたはずだった。そんな大事なものを台所になど置き忘れるはずがない。わたしは記憶をたどってみようとしたが無理だった。  結局、美知男もコンサートに行かなかった。彼のチケットはちゃんとあるのだから、一人でも行けばいいのに、同僚のお医者さんにあげてしまった。もちろん、わたしを責めたりはしなかった。あの時わたしはそれを、彼の優しさだと思い込んでいた。  チケットは変色し、所々|焦《こ》げつき、脂《あぶら》の染みとパン屑《くず》と埃《ほこり》にまみれていた。もう引き返せない日付が刻んであった。わたしはそれを残飯の中に捨てた。  次の次の日、ひどく風の強い朝、空を何か白っぽいものが飛んでいるのが見えた。空中の低い所をゆらゆらとあやうげに漂っていた。明らかに鳥ではなかったし、ただのゴミとも雰囲気《ふんいき》が違っていた。わたしは窓を開けベランダに出た。するとそれが合図だったかのように、白い物体はこちらに近付き、ベランダに舞い下りてきた。よく見ると、ビニール製の手袋の片方だった。手術やいろいろな処置の時に使う、医療用の手袋だ。  ばい菌でもついていたらいけないと思い、手首のあたりを慎重につまみ上げた。五本の指がばらばらに風になびいた。油断するとすぐにまた飛んでいきそうだった。観察してみたが怪しげな点は見つからなかった。普通に病院で見かける手袋だった。ただ、ベランダに医療用のビニール手袋が舞い落ちてくるという事態だけは、どう考えても怪しげだった。  美知男もたぶん、これと同じようなものを使っていたのだろう。手術室から出て来たばかりの彼の指は、白くふやけていた。皺《しわ》の一本一本すべてが水分を含み、膨張し、爪《つめ》は柔らかく透明になり、皮膚は海の生物のようにぬるぬるしていた。その手で彼はわたしに触れた。  しばらく自分の掌《てのひら》で手袋をばたつかせたあと、わたしはベランダから身体《からだ》を乗り出し手を離した。するとそれはまたふわふわと風に乗り、どこかへ飛んでいった。  三つめの出来事は駅のホームで起きた。電車を待っていたら突然、見知らぬ女性から声を掛けられた。 「先日はどうもありがとうございました。おかげさまで助かりました。お借りしましたお金、お返しいたします」  その人はそう言って十円玉を差し出した。わたしと同い年くらいの、痩《や》せて顔色の悪い人だった。わたしが戸惑っていると、強引に十円玉を押し付けてきた。 「何か勘違いなさっているんじゃありませんか。わたし、お金をお貸しした覚えなど……」 「いいえ。あなたに間違いございません。はっきりこの目で確かめたんです。どうぞ受け取って下さい。そうでなきゃ、私の気持がおさまりません」  彼女は一歩も引き下がらなかった。この目で確かめた、というわりにはわたしの方など少しも見ていなかった。足元に視線を落としたまま、ぐいぐいと身体を近付けてきた。 「こんなことをされても、困ります……」 「だってあなた、大学病院にお勤めでしょ? ロビーで松本先生とお話されている時、電話代をあなたにお借りしたんです。あの時の私ですよ」  美知男の名字を彼女が口にしたことで、わたしはびくっとした。 「それはいつ頃の話ですか?」 「一週間ほど前です。本当に助かりました。お金がなくてとても困っていたんです。でも今は、ほら、私お金を持っているんです」  彼女はわたしの腕をつかみ、指の間に無理矢理硬貨を押し込むと、うつむいたまま早足で人込みに消えていった。  一週間前ならやはり違う。美知男と病院のロビーで会ってはいない。それにわたしは、知らない人にお金を貸した経験など一度もない。  わたしはため息をつき、掌を広げた。薄汚れた冷たい硬貨だった。  語り小部屋に来ると、帰りにはたいていユズルさんとミドリさんの部屋に寄った。二人はいつも歓迎してくれた。語り小部屋から出てきた人の多くは、もう一言も言葉は発したくないという雰囲気で、ふさぎ込んだようにすぐ帰ってしまうのだが、わたしはそれほど深刻にはならなかった。六角柱の中の空気と外の空気をうまくなじませるためにも、二人と一緒の時間を過ごす方が都合がよかった。  いつものようにユズルさんが中国のお茶をいれてくれ、ミドリさんは編み物をしていた。会話をするのはほとんどユズルさんとわたしで、ミドリさんは笑ったり、「いえ、いえ」と謙遜《けんそん》して手を振ったり、顔中に皺を寄せて考え込んだりするだけだった。時折、ビスケットや果物やサンドイッチをごちそうしてくれた。そういうものを用意するのもユズルさんだった。彼は器用に包丁を使い、材料を丁寧に扱い、上手に盛りつけた。テーブルにお皿がそろうと、ミドリさんは編み棒を置き、一番に手をのばした。  わたしはもう、小部屋で何を語ったらいいのか悩まなくなった。ベンチに坐れば、何かしら話が浮かんできた。そして語り終えると、自分が今求めていた言葉たちはこれだったのだと納得することができた。小部屋を出たあとの胸の濃密な感じにも、戸惑わなくなった。やがてその濃密さは血液とともに脳へ運ばれ、記憶細胞の限られた一か所に流れ着き、そこへ封じ込められるのだということが分ったからだ。  ある日曜日の朝、社宅管理事務所に行ったら、ユズルさんが小部屋の掃除をしていた。 「今日はお客さんがなかなか来そうになかったから、今のうちに掃除しておこうと思ったんだ。もしすぐに入りたかったら、どうぞ。僕の方はあとからでも構わないんだ」  ユズルさんは雑巾《ぞうきん》を持ったまま言った。 「いいえ。作業を続けて下さい。それよりわたしもお手伝いしましょうか」 「とんでもない。これは僕に与えられた数少ない貴重な仕事なんだよ。君はそこでくつろいでいてよ。すぐ終わるから」  わたしは椅子に腰掛け、彼の作業を見守った。  彼はバケツの水で雑巾を濡《ぬ》らし、六角柱の外壁を拭《ふ》いていた。天井には手が届かないので、靴を脱いで椅子の上に立った。雑巾をかたく絞り、木目に沿って何度も何度も腕を上下させた。 「ミドリさんは?」  わたしは尋ねた。 「プールに行ったよ」 「例の老婦人と一緒に?」 「うん」  手を休めずにユズルさんは答えた。セーターを脱ぎ、シャツは腕まくりしていた。たいして汚れているとは思えないのに、精一杯力を込めていた。  六枚の壁を一周すると、バケツの後ろから丸く平たい缶《かん》を取り出した。 「それは何?」 「ワックスさ」  彼は蓋《ふた》を開け、自慢げにその缶をわたしの方に向けた。中身は半透明で、琥珀色《こはくいろ》をしていた。 「材質に合うワックスを特別に調合してもらっているんだ」  今度は乾いた布にそれを取り、さっきと同じように壁を磨《みが》き始めた。ほのかに甘い、木の実のような匂《にお》いが漂ってきた。 「いつもそんなふうに、念入りにお掃除するの?」 「まあね」 「手つきが、何ていうか……とても洗練されているわ」 「そうかなあ」 「無駄《むだ》な動きがないし、真心がこもっている。うっとり見とれるくらいよ」 「きれいにしておくのが好きなんだ。ただそれだけさ」 「わたしが話し掛けると邪魔? もしかしてこの掃除が、無言で行なわれるべき儀式の一つだとしたら正直に言ってね。黙るから」 「そんなことあるわけないじゃないか」  彼は笑った。  深呼吸するようにゆっくりと、ワックスは六角柱にしみ込んでいった。窓から差し込む光の弾《はじ》け具合でそれが分った。彼は目をこらし、塗り残しがないかどうか慎重に点検した。余計な指紋をつけないよう、指先に注意を払っていた。  穏やかに晴れた冬の朝だった。ストーブは消えていたが寒くはなかった。規則正しく並んだ社宅の群れに、平等に光が当たっていた。お客さんがやって来る気配はなかった。  掃除を続けながらユズルさんは、これまでに訪れた町についてのいろいろな話をしてくれた。雪の深い北の町で火事に巻き込まれ、六角柱を抱えて走って逃げた話や、ある島でミドリさんがイカの刺身の寄生虫にやられ腸|閉塞《へいそく》をおこし、ヘリコプターで病院に運ばれた話や、どこからか迷い込んできた野良猫《のらねこ》が語り小部屋の中で死に、ミドリさんと二人で埋葬してやった話。彼はお伽話《とぎばなし》を聞かせるように楽しく喋《しやべ》った。 「じゃあ、今度は中を掃除してくるよ。待ってて」  バケツとワックスの缶と雑巾を持って彼は小部屋の中へ入っていった。扉《とびら》の閉まる音がした。ユズルさんとミドリさんもあそこで語ることがあるのだろうかと、ふとわたしは思った。 「ねえ」  わたしは声を掛けてみた。しかし返事はなかった。やはり中まで声は届かないらしい。外と同じように内側も、彼は隅々《すみずみ》まで磨き上げているに違いない。ベンチがあるぶんだけ中の方が時間がかかりそうだ。それにランプもある。あれを分解し、煤《すす》を落とすのは手間だろう。いつでもランプのシェードはつやつやしているし、ガラスに曇りもないし、アルコールがきれいに透けて見える。でも彼はうまくやるだろう。慣れているみたいだし、手つきに愛情が感じられる。とにかくわたしは六角柱の方を向いたままじっと待った。  布と壁がこすれる気配も、バケツの水が弾ける音も聞こえてこなかった。語り小部屋は気分よくくつろいでいるように見えた。人々が順番を待って語っている時の張り詰めた感じがなかった。磨きたての壁は生き生きとし、またいくらでも言葉を吸い込むことができそうだった。  思ったとおりユズルさんはなかなか出てこなかった。あたりは静かになるばかりだった。さっきまでにぎやかにお喋りしていただけに余計、その静けさが強く鼓膜を覆《おお》った。 「ねえ……」  無駄だと知りながらもう一度声を出してみたが、やはり同じことだった。  だんだん心配になってきた。彼は何をしているのだろう。掃除じゃないか。わたしは自分に言い聞かせた。もしこのまま彼が出てこなかったらどうしよう。小部屋の中の隠しドアから秘密の地下通路に出て、次の町へ出発してしまったのかもしれない。掃除していたのはカムフラージュで、この六角柱は偽物《にせもの》なのだ。ミドリさんは一足先に出発したのだろう。日曜なのにお客さんが一人も来ないのもおかしい。みんなきのうが最後だったことを知っていたのだ。わたしだけが知らずにやって来て、一人ここに取り残されたんだ。  胸が苦しくなってきた。想像だけが勝手にふくらんでいった。押さえようもなく哀《かな》しかった。わたしは立ち上がり、語り小部屋に近寄っていった。偽物だと思うとその壁がいつもより妙に安っぽく見えた。恐る恐る真鍮《しんちゆう》のノブに手をのばした。その瞬間、ユズルさんが出てきた。 「待たせたね。ごめんよ」  入った時と同じ道具を両手に抱えていた。溌剌《はつらつ》とした表情も変わりなかった。ただ額にうっすら汗をかいているだけだった。わたしはのばしかけた腕を引っ込め、それをどこへ持っていったらいいか戸惑った。 「いいえ。気にしないで。ちっとも退屈なんてしていないから」  目の前にいるのは間違いなくユズルさんだった。偽物などではなかった。ほっとしてわたしは、照れ笑いをした。    7  その夜は雨が降っていた。霧と見間違えるくらいの細い雨だった。時折音もなく、しずくが窓を流れ落ちていった。  目がさめたのは真夜中過ぎだった。それまで自分が眠っていたとは思えないくらい、頭が冴《さ》えていた。部屋の風景も暗闇《くらやみ》も雨の気配も、すべてが時間からくっきりと浮かび上がっていた。なぜかそんなふうに感じた。  次の日は医学部の入学面接試験だった。わたしは朝早く出勤し、会場の案内板やさまざまな書類や教授たちに出すお茶とお菓子が、きちんと準備されているかどうか点検しなければならなかった。立ちっぱなしの忙しい一日になるはずだった。だから少しでもたくさん眠っておきたかった。  なのにどうしても眠りは訪れなかった。目をつぶると雨が見えた。それは上から下へ休みなく闇をなぞっていた。いつまでもじっとしていると、めまいがしてきそうだった。  語り小部屋へ行こう、とわたしは思った。たぶんユズルさんとミドリさんはもう寝ているだろうが、それでも構わない。語り小部屋は待っていてくれるはずだ。わたしはパジャマの上にじかにコートをはおり家を出た。  何度ここへ来ても林の中の道を覚えられません。いつも迷います。今度こそもう駄目《だめ》だ。引き返そう、とあきらめた瞬間、目の前に社宅が現われるのです。不思議ですね。ただわたしが方向音痴なだけでしょうか。  こんな夜遅く来るのは初めてなので、少しどきどきしました。もし真っ暗で、鍵《かぎ》でもかかっていたらどうしようかと心配していたのです。ちゃんと電気もストーブもついているのですね。安心しました。  わたしは足を組み替え、コートについたしずくを払った。素足が冷たかった。  長い間わたしは自分のことを、それほど悪い人間じゃない、むしろ比較的いい人間だと思い込んでいました。滑稽《こつけい》でしょ? 警察に捕まったこともないし、停学にも退学にもならなかったし、友だちは多くはないけど数人はいるし、無断欠勤は一日もなく、残業を命じられても文句を言ったことはない。休日には入院中の子供たちにボランティアで絵本を読んであげているし、隣りの部屋の女子大生が足の骨を折った時は食事の世話をしたし、街頭募金箱には必ず百円入れる。……  でもそんなこと、何の証明にもならないんです。人間の心なんて、どこまでも行き止まりがありません。わたしは入り口の近くで、無邪気にうろうろしていただけです。  いい人間になりたいとか、いい人間であるべきだ、などと主張しているわけではありません。自分の足で心の奥底へ降りてゆく意志が大事なのだと感じるだけです。  雨のせいかいつもより空気が冷たく、わたしは咳《せ》き込んだ。その咳の音さえも六角柱に吸い込まれていった。しばらく胸をさすってから、わたしは続けた。  今日は、これまで誰にも語ったことがない話をしようと思います。ここ以外で喋るつもりはないし、またそうする必要もない種類のことです。ここでは何を語っても構わないんでしたよね。昔話でも未来の夢でも、真実でも幻想でも。  美知男と別れるのには時間がかかりました。まず、この憎しみという感情を受け入れるのに手間取りました。まだ彼と一緒にいたいなどと未練を持っていたわけじゃありません。もしかしたらこの感情はひとときの通過点で、もう少し我慢すればまた愛情が——もちろん以前のものと性質は違っているでしょうが——わいてくるのではないかと思ったのです。憎しみをどう取り扱ったらいいのか、慣れていなかったのです。  けれどいつまで待っても愛情は復活しませんでした。ますます泥沼《どろぬま》が深くなるばかりです。わたしが格闘していた相手は、美知男ではなく自分の感情でした。  彼を困らせたり怒らせたりすることをしたいと、わたしは望むようになりました。彼は決して取り乱さない人でした。いつも冷静で穏やかで謙虚でした。そのことが理不尽な仕打ちのように苦痛になっていました。子供じみていると思われるでしょうが、仕方ありません。ある意味であの時、わたしは一生懸命だったのです。  共通の友人の披露宴《ひろうえん》に二人で招待された時のことです。隣で美知男は婚約式のやり直しの件について、しきりに話していました。……早い方がいいと思うんだ。先のばしする必要なんてどこにもないんだから。いつまでも指輪を手元に置いておくと僕も落ち着かないんだ。今度はホテルの部屋を借りてやろう。その方が楽だろ。そうすれば君は料理を作る手間が省ける。僕もパエリヤを運ばなくてすむ。きっとうまくいくよ。僕は別に形式になんてこだわっていないよ。ここで指輪を手渡して、それで約束完了、でも構わないんだ。ほら、こうして指輪を持ち歩いているんだ。君がその気になったらいつでも渡せるようにね。心配しなくていいよ。落としたりしやしないから。……彼は普段より饒舌《じようぜつ》になっていました。わたしはあいまいに相づちを打つだけで、しまいにはそれもだんだん億劫《おつくう》になり、あとは目の前に並ぶ皿をぼんやり眺《なが》めていました。  左隣に三十代後半の男性が坐っていました。知り合いが一人もいないらしく、黙ってワインを飲んでいました。誰も彼に注意を払っていませんでした。 「新郎新婦とはどういうご関係ですか?」  美知男がスピーチに立った時、わたしは彼に話し掛けてみました。 「古い友人です」  低くかすれた声でした。余計なことは一言も喋りませんでした。 「お仕事はどういう方面ですか?」 「陶芸をやっております」 「どんなものをお焼きになるの?」 「今日の引出物は私の作品です」 「まあ、楽しみだわ」  会話はそれだけでした。披露宴が終わるといつのまにかその人の姿は消えていました。  引出物は一輪挿《いちりんざ》しでした。灰色でざらざらした手触りで曲線がわずかに歪《ゆが》んでいました。特別目を引くデザインではありませんでしたが、箱に印刷されていた仕事場の住所が、十歳までわたしが住んでいた町の近くになっていました。だからと言って、どうというわけではありません。それだけのことです。けれどわたしは、そこを訪ねたのです。はっきりした目的もなく、計算もなく、ただ漠然《ばくぜん》とした気持で。そう、ちょうど初めてここへたどり着いた時と同じように。  仕事場は鉄工所の裏の空き地にある、廃屋同然の平屋でした。屋根のトタンは錆《さび》つき、風が吹くとバタバタ音をたて、窓ガラスの半分は割れ落ち、全体に鉄粉をかぶって赤茶けて見えました。庭にある窯《かま》だけが、どうにか存在感を持っていました。  ベニヤのドアを叩《たた》くと、すぐに彼が現われました。その人が披露宴の時隣にいた人物と同じかどうか、確信はできませんでした。顔など満足に見ていなかったのですから。肩のあたりの雰囲気《ふんいき》にちらっと見覚えがあるような気がしただけです。  ああいう場所は、突然にお客さんがやって来て、焼き物を買ったりすることがよくあるのでしょうか。その人はわたしを見てもさほど驚きませんでした。当然のようにわたしを招き入れました。  中は仕切りがなく、一つの広い部屋で、雑然としていました。巨大な石のテーブル、土の入った袋、何種類もの木のへら、刷毛《はけ》、顔料の瓶《びん》、やかん、板、布きれ、電話、紙屑《かみくず》、そして数えきれない皿、壺《つぼ》、茶わん、花瓶、湯のみなどが、散らばっていました。半分は割れたり欠けたりしているようでした。  その人は材料や作業の工程や作品について説明してくれました。彼がどんな服装だったか、——当然作業服のようなものだったのでしょうが——どんな顔だったか、ちっとも思い出せません。わたしは物が散乱した中、作品を壊さないよう注意して歩くのが精一杯でした。  思い出せるのは声だけです。古い楽器の弦をこするような、足元に降り積もってゆくような声です。  わたしはまた咳き込んだ。コートの襟元《えりもと》をつかみ、両足をベンチの奥へ引っ込めた。その時、背中が痛み始めた。わたしはため息をつき、身体《からだ》をよじって少しでも楽な姿勢になろうとした。目をつぶり、痛みの波が引いてくれるのを祈りながら、それでも語るのはやめなかった。  割れた窓ガラスには青色のビニールシートで覆いがしてあったので、部屋の空気もそれと同じ色に染まっていました。日光が見えないため、時間がさえぎられたような感じでした。きっかけは何だったのでしょう。……やっぱり思い出せません。彼と一瞬目が合ったようにも思います。錯覚かもしれません。その目の印象が浮かびませんから。とにかくわたしたちはそこで関係を持ったのです。  よく知らない男とそういうことをするのは初めてでした。善悪の問題としてではなく、感覚の問題として、自分にはそういうことは向いていないだろうと、ずっと思っていました。けれどその時は、自分だけの常識を破るのにためらいはありませんでした。  陶芸家を好きになったからでも、快楽が欲しかったからでも、美知男とのつながりを断ち切りたかったからでもありません。自分の意識の沼に、どこまでも深く降りて行きたかっただけです。そのために必要な行為だったのです。  背中の下はかたく、陶器の破片や砂でざらざらしていました。何かが突き刺さって血が出ていたかもしれません。その人の胸は大きく、腕は太く、肌《はだ》はビニールシートの色に染まって濁っていました。彼はわたしの身体を大事に取り扱いました。闇の沼に沈んでゆくわたしを優しく導いているかのようでした。鉄工所のざわめきとトタン屋根の鳴る音が遠くで聞こえました。ちっとも怖くありませんでした。  途中でテーブルの上の壺が落ちて割れました。破片が足に降りかかりました。もしも大事な作品だったらどうしようと、わたしは心配になって身体を起こそうとしたのですが、彼は気にしなくていいというふうに、両手で軽く肩を押さえました。  わたしは目を閉じました。沼は生温かく、身体を覆う感触は重く、見渡すかぎりすべてが闇に満たされていました。確かなものはただ彼の手だけでした。それはうす汚れた、名前も知らない誰かの手でしたが、はぐれてどこかへ迷い込んでしまわないよう、わたしをしっかりと守っていました。  なぜこの人は理由も聞かず、文句も言わず、こんな役割を引き受けてくれているのだろう。わたしは不思議に思いましたが、言葉には出しませんでした。言葉にしたらその途端、鉄工所も窯もビニールシートの窓も彼の身体もすべてが、さっきの壺と同じように砕けてしまう気がしたからです。  そこを出たのは夕方でした。わたしたちはさよならも言いませんでした。手も振りませんでした。ベニヤのドアをただそっと閉めただけです。とてもきれいな夕焼けでした。背中の痛みは続いていました。鈍く、時には鋭く、途切れることがありませんでした。目に見えない新しい生物が背中に宿ったかのようでした。  そう、ちょうど今の痛みと同じです。その生物は両手両足を背骨にからめ、胸と頬《ほお》をぴったり押しつけ、痛みの息を吹きかけてくるのです。何度も、何度も、何度も……  我慢できなくなってわたしは床にしゃがみ込み、ノブをつかんだ。扉《とびら》を押しながら一緒に身体をあずけた。鈍い音をたてて、わたしは外に転がり出た。  助け起こしてくれたのはユズルさんとミドリさんだった。二人はわたしを奥の部屋のベッドに運んだ。 「どうしたの?」  枕元《まくらもと》でユズルさんが顔をのぞき込んだ。ミドリさんはコートを脱がそうとした。 「いいえ。どうぞこのままにしておいて下さい。下はパジャマなんです」  わたしは微笑《ほほえ》もうと思ったが、口が歪《ゆが》んだだけだった。 「どこか痛むの?」 「背中が……でも大丈夫です。すぐおさまりますから。よくあることなんです」  わたしは横向きになり、身体をできるだけ小さく丸めた。 「鎮痛剤ならあるんだけど。それとも余計な薬は飲まない方がいいかな」  ユズルさんは食器|戸棚《とだな》の引き出しを開け、薬の瓶をいろいろと取り出した。 「いいえ。いただきます」  鎮痛剤はかなり大きな白い錠剤だった。それを三つ飲んだ。ミドリさんはベッドの反対側へ回り、背中を撫《な》でてくれた。 「どうも、すみません」 「いいえ。いいえ。どうぞ気兼ねなさらず、ゆっくり休んで下さい」  背中に感じるミドリさんの手は温かく、小さかった。  ユズルさんは薬を飲んだコップを片付けたあと、他に何かすることはないかとうろうろしていたが、結局|椅子《いす》を枕元に持ってきて腰掛けた。 「語り小部屋の中で無理な体操をしたわけでも、重い荷物を上げ下げしたわけでもないのよ。ただ語っていただけ。なのに、背中が痛くなってしまったの。変でしょ」 「変じゃないさ。あそこにこもるのは、君が思っている以上に重労働なんだよ」 「今日はね、ちょっとデリケートなことを語ったの。難しい話じゃないんだけど、重苦しくて、出口がなくて、言葉にすればするほど切なくなるような……」 「駄目《だめ》だよ」  ユズルさんは人差し指をわたしの唇《くちびる》に当てた。 「あそこで何を語ったか、他人にもらしちゃいけない。語り小部屋に入った意味がなくなるからね」  わたしはうなずき、続きの言葉を飲み込んだ。 「お二人がまだ起きていて下さって助かりました。一人ぼっちだったら、心細くてどうしようもなかったわ」  話題を変えるためにわたしは言った。 「語り小部屋を訪れる人がいるのに、僕たちは眠ったりしないさ」 「あっ、そうだ。今日の分、まだお金をお支払いしてないわ」 「そんなのあとで構わないよ」  あまり大きな声を出すと背中に響くと思ったのだろうか、彼は腰を深く折り、顔をわたしに近づけながらささやき声で話した。ミドリさんの姿は視界には入らなかったが、掌の感触のおかげでその存在ははっきりと感じ取ることができた。 「あとどれくらい、語り小部屋はここへ置いておいてもらえるのかしら」  独り言のようにわたしはつぶやいた。ユズルさんは左手の上にあごをのせ、ちらっとミドリさんの方を見た。ミドリさんはただ黙って、背中を撫で続けた。 「僕にもよく分らないよ。ただはっきりしているのは、いつかは時期が来るっていうことだ」 「次の町はもう決まっているの?」 「まだだよ。旅をするうちに自然に決まるんだ。場所の磁力に引き寄せられるんだよ」 「ずっとここに居てもらうわけにはいかないの?」  答える代わりに彼は微笑み、わたしの両手を握った。彼の身体に触れるのは初めてだ、とわたしは思った。ユズルさんとミドリさん、二人の手の中に身体が包み込まれているような気分だった。窓の向こうで雨の気配はまだ消えていなかった。 「わたしみたいなお願いをする人、今までにもいたでしょ?」 「まあね。でも、前にも言ったとおり、必要以上に長くあそこに閉じこもるのは好ましくないからね。大事なのは時間じゃなく、タイミングなんだ。たいていの人は自分と語り小部屋の適切な関《かか》わり方を、本能的に感じることができる。君だってそうだよ」 「わたし、自信ないわ」 「大丈夫さ」  ミドリさんがうなずいていた。姿が見えなくても掌の感触で分った。 「お二人と会えなくなるのは、とても淋《さび》しいもの」  わたしは彼の手を強く握り返した。 「僕たちだって淋しいさ」 「じゃあ、どうして行くの?」 「遠くにも、語り小部屋を待っている人がいるからね」 「誠実な番人なのね」 「そう言ってもらえると、うれしいよ」 「会いに行くわ。新しい町に引っ越しても、お二人に会いに行くわ。ね、いいでしょ?」 「子供の頃《ころ》、転校するたび、クラスメートに同じことを言われたよ。遊びに行くからな。絶対行くからな。でも、本当に来てくれた友だちは一人もいなかった」 「いいえ。わたしは嘘《うそ》なんかつかないわ。次の場所が決まったら連絡して。お願い」  ユズルさんはうなずきもしなかったし、首を横にも振らなかった。ただいつものはかなげな微笑みを浮かべ、さらに顔を近づけてきただけだった。息が両手に吹きかかった。 「わたし、待っています。ミドリさん、お願いしますね。今度一緒にプールへ行きませんか。ご迷惑じゃなかったら。スイミングキャップの玉飾り、とてもかわいいわ。ご自分で作られたんですか。ああ、気持いい。ミドリさんの手が触れるたびに、痛みが引いていくんです。お疲れになったでしょう。本当にありがとう。どうぞもうお休みになって下さい。ユズルさんも。そろそろ明け方ですもの。朝になればたくさんお客さんがいらっしゃるわ。こんなによくしてもらって、どう感謝していいか分りません。何だか眠くなってきました。さっきのお薬が効いたんでしょうか。ふわふわして、いい気分です。ミドリさんの手も、ユズルさんの息も、とても心地いいんです。目を開けているのが辛《つら》くなりました。閉じてもいいですか。このまま眠ってしまったら、ごめんなさい。わたし一人だけで……。ユズルさんがあの六角柱を持ち歩いているところを、見てみたいわ。きっと頼もしいんでしょうね。お引っ越しの時は呼んで下さい。わたしもお手伝いします。眠りの海が足元を浸しています。もう駄目です。本当はもっと起きていたいのに……。お二人の感触をもっと味わっていたいの……。残念だわ。こんな素敵な夜に眠ってしまうなんて……本当に……残念……」    8  目がさめると、二人の姿は見えなくなっていた。わたしは身体を丸め、両腕を胸の前で折り曲げ、昨夜と同じ格好で横たわっていたが、背中を撫でてくれる掌も、手を包んでくれるぬくもりも消えていた。  わたしはそろそろと身体を起こした。もう、どこも痛くなかった。カーテンのすきまからは朝日が差し込み、外では小鳥がさえずっていた。頭を振り、背伸びをし、深呼吸をした。コートが皺《しわ》だらけになっていた。信じられないくらい長い時間眠ってしまったような気がして腕時計を見たが、日付は一日しか変わっていなかった。  頭がはっきりしてくるにつれ、部屋の様子が昨日と変わっているのに気づいた。戸棚の食器や、段ボールの中の本や、紙袋に入れた毛糸や編み棒がなくなっていた。流し台やガス台やテーブルはきれいに片付けられていた。 「ミドリさん……」 「ユズルさん……」  二人の名前を呼んでみた。喉《のど》がかすれてうまく声が出なかった。返事はなかった。  扉を開けると、そこはまぶたが痛くなるほどの朝日に満ちていた。雑然と並んだパイプ椅子と折り畳みのテーブルが光に包まれていた。窓に映る空は澄み、水滴の残る木々の葉は一枚一枚がきらめいていた。わたしは何度もまばたきをし、語り小部屋に視線を合わせようとした。けれどどんなに目をこらしてもあの六角柱は見当らなかった。昨夜までそれがあった場所は、ただの淋しげな空洞《くうどう》になっていた。  わたしはその空洞に近寄った。確かにここに六枚の壁と、真鍮《しんちゆう》のノブがあったはずだ……。わたしは腕をのばした。指は頼りなく宙をさ迷うだけだった。空洞の真ん中に立ち、小部屋の記憶をたぐり寄せようとした。ランプの炎、言葉を吸い込んだ濃密な空気、ベンチの感触、圧倒的な静けさ。……あれほど鮮やかだったものが、何一つよみがえってはこなかった。  視線を足元に落とすと、床に微《かす》かな傷が残っていた。つなぎ合わせると六角形になるような気がした。語り小部屋を持ち去った時できたのだろうか。わたしは靴《くつ》の先でそっと傷に触れた。それははかなく消えた。  ただ一つ、かき氷の器だけが、きのうと同じ机の上に置いてあった。一人ぼっちで取り残され、心細くうつむいているように見えた。フリル模様になった縁に、朝日が当たっていた。中には何も入っていなかった。わたしはその器をポケットにしまった。割れないように、コートの上から大事に撫でた。そうすることが、ここに語り小部屋が存在した記憶をとどめておくための、唯一《ゆいいつ》の方法に思えた。  それから三週間くらいたったある日、プールで老婦人を見かけた。真ん中のコースで黙々と泳いでいた。わたしはいそいで近づいていった。 「語り小部屋の行き先を知りませんか。ミドリさんとユズルさんは、いったいどこへ行ってしまったんでしょう。どんなささいなことでもいいんです。もしご存じなら教えてもらえませんか。このまま全部が消えてしまうなんて、わたしたまらないんです。あなたもそうお思いになるでしょう。あの小部屋にいくらかでも自分の言葉をしみ込ませたのですから。ほんのわずかでも、その名残りを手元にとどめておきたいんです。どこに行ったらまた出会えるのでしょう。あの六角形の小部屋に……」  その時、老婦人は水の中からすっと腕を持ち上げ、人差し指をわたしの唇に当てた。指先からいくつも水滴がしたたり落ちた。  同じことをユズルさんにもされたことがあると、わたしは思い出した。小部屋の外で、余計なことを語っちゃいけない。そう言って彼はわたしの唇を封印したのだ。  しばらく黙ってじっとこちらを見つめていた老婦人は、腕を下ろし、背を向け、大きく息を吸い込んでから水の中に潜った。小さな泡《あわ》が浮き上がってきた。そして彼女は静かに、水音も立てず、平泳ぎをはじめた。どこまでもどこまでも遠く、泳いで去っていった。 この作品は平成六年十月新潮社より刊行され、平成十年一月新潮文庫版が刊行された。